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来た時と同じ馬車に乗り、執事トンプソンに見送られて教会を出た。結婚をした実感はまるでわかないのに膝に乗せた木箱と花束だけがずっしりと重かった。
(ヴィンセント様は徹底していらっしゃるわ。妻を娶っても顔すら見ないなんて)
丘を下っていく馬車の中で、ソフィアはベール越しに見たヴィンセントの横顔を思い出していた。神の使徒だと言われたら信じてしまいそうな整った顔立ち。あの顔にグリーンの目を持っているなんて奇跡に違いない。
(それで恋人の公爵令嬢クリスティン様に一途だなんて、ステキだわ)
ソフィアには目もくれないが、恋人を大切にしているのだから仕方がない。
そう思っていたソフィアだが、馬車が一度停まった大邸宅で行き先はここではないと言われ、更に長いこと馬車に揺られて着いた先のあばら家をみた時にはさすがに複雑な気持ちになった。愛されてないとはいえ、困窮している実家よりも酷い有様の家を眺めていた。腕に抱えた箱の中にあるネックレスのほうがこの家より遥かに値が張るだろう。
一目で手入れの行き届いていないのがわかる一部屋根の落ちた家屋に、咲き乱れるバラは美しいものの一切手入れがされていない。馬車の御者が申し訳無さそうにしているので、ソフィアは落胆を表に出さないように堪えた。
「ソフィア様の侍女たちは先に着いているようです」
「そうなのね。ありがとう」
あばら家から目が離せないソフィアに御者の若者が「何かトンプソンさんに言付けがあれば伺いますが」と問う。聞いてみたいことは山程あるが、このあばら家が全ての答えなのだとソフィアは口を引き結んだ。父がバトラー家から大金をせしめたことはわかっている。バトラー家とて爵位が欲しいとはいえあまりに法外な額にすっかり嫌気がさしたのだろう。すうっと息を吸い込んでから御者へと顔を向けた。
「何もありません。気を付けてお戻りくださいね」
御者の気まずそうな顔を見ているのはいたたまれない。この先、ずっとこのような同情と憐れみを向けられるのだと思うと、想像よりこの結婚が針の筵であるのだと理解した。
(お飾りの妻である覚悟はしていたけれど、ここまであからさまだと堪えるわね)
馬車が去っていくのを見送ってから、まだ暫くあばら家からの目を離せなかった。木箱と花束とこの家が結婚したソフィアに贈られた全てらしい。屋根と、壁の漆喰も剥げている所があるので直さねばならない。庭も自由奔放に育っている草木をなんとかしないと。打ち捨てられたのは妻だけで充分、家までそんな見た目をしている必要はない。
その時、玄関のドアが開いて見知った顔が現れた。幼き日からずっと一緒に育った侍女キャサリンだ。その後に続くのはその侍女と結婚したばかりの従者ベンジャミン。
二人を見てやっとソフィアは心から笑みを浮かべ、油断して涙が滲んだ。
「フィフィ!」
ソフィアを愛称で呼ぶのはこの世で侍女夫婦と疎遠になった家庭教師しか居ない。この名で呼ばれるとソフィアはますます泣いてしまいそうだった。鋼の鎧を纏っていた心の弱いところを突かれた感じになる。
「離れていて心細かったわ」
駆けて来る二人を待ちきれずソフィアも駆け寄っていた。
「私たちも心配でどうにかなりそうだったもの」
姉妹同然に育ったキャサリンは「嫌なことはされなかった?」とソフィアを抱きしめた。
「ええ、全然されていないわ。えっと……強いて言うならばここ家の事が一番酷いわね」
困った顔のソフィアとは違い、キャサリンは怒りを隠さなかった。
「聞いてよ! ほら、あそこの屋根が落ちてるでしょう? あそこは唯一のベッドルームよ。なのに雨ざらしだったから、何もかもダメになっていて……信じられないくらい酷いんだから」
「部屋は何部屋あって?」
「それがキッキンとベッドルーム、メイドルーム、それから玄関ホールのみ」
それは困ったことになった。ベッドルームが使えないということはソフィアの寝る場所がない。
「私の寝る場所がないのね。えっとメイドルームの広さは二人で使えそうくらいあるのかしら?」
キャサリンとベンジャミンが顔を見合わせて、先にベンジャミンが口を開く。
「新婚なので、くっついて眠れるのはありがたいです」
なるほど、ソフィアが思っているよりメイドルームも狭そうだ。
「とにかく……なんとかしないと。ベン、近くの街に行って大工さんを雇ってもらえるかしら」
部屋の狭さより、早急に屋根の問題はなんとか対処せねばならない。バトラー家から生活費としてどれくらい支給されるかわからないが、一刻も早く屋根だけでも塞がないと生活がままならないのは確かだ。
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