挙式

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挙式

 ソフィアは泣いていた。勢いよく転んでしまって石畳に打ちつけた掌からはじんわり血が滲んでいる。それに口の中は血の味もしていた。唇を切ったのだ。 「ああ……痛いね、それは」  そう言って差し伸べられた手。うつ伏せのまま見上げると、秋の空のように澄んだ青い目が見下ろしていた。その優しい男の子はゆっくりとほほ笑んで、更に手を差し伸べて──ソフィアはそこでいつも目を覚ます。  幼き日の記憶。何年も前だというのに、今朝も同じ夢を見た。  ソフィアはもう子供ではない。その証拠に今は自身の結婚式を挙げるために教会へ向かっていた。豪奢な馬車はこれまで乗ったものの中で一番高級なものだった。座席の生地は滑らかで柔らかい。そして、そこに広がるソフィアのドレスの生地といったら、バルカギア王国の首都シュリアでもなかなか見ることの出来ない特級品だった。ソフィアは純白のウエディングドレスを撫でて、自身の緊張を和らげようとしていた。結婚相手のヴィンセント·バトラーは辺境の地で生活しているソフィアにすら噂が耳に届く有名人だ。ブロンドの髪が美しい事よりも、そのグリーンアイに見つめられると息が止まりそうになるほど美青年らしい。 「グリーンアイってどんな感じかしら……」  独りごちるソフィアはこれまでグリーンアイを見たことがない。希少な目の色なのだ。ソフィアの目の色はヘーゼルで一般的によくある色だし、美しいとされている青い目もこれまで何度も目にしてきた。結婚に夢をみることはないがそのエメラルドとたとえられる目を見ることはこの結婚での唯一の楽しみだった。  馬車は速度を落として小高い丘の頂上にある教会の前に停まった。ガタンと大きく揺れた後、馬車の戸が開けられた。御者が中を覗きソフィアに手を差し伸べた。 「それでは侯爵令嬢ソフィア·シューマン様、教会の中へとご案内致します」  さすが、貿易で巨万の富を築いた男爵バトラー家であった。御者の服すらソフィアが普段着ているものより数段いい毛織物を使っている。若くハツラツとした御者の手を借り、ソフィアは五月の清々しい丘の上へと下り立った。 「ありがとうございます」  御者に顔を向けると相手は微笑んで頷いた。もしも、この人が結婚相手であればソフィアの心に春風が吹き込んでくる思いだっただろう。  教会は白亜の建物で、存分にステンドグラスがはめられた立派なものだった。風は優しく、木々の若葉は薄黄緑で柔らかい。小鳥のさえずりも彩りを添え、これ以上ない素晴らしい日であった。  待ち構えて居た初老の女が若い侍女を伴いそそくさとやってくる。侍女の腕にはベールとブーケが抱えられていた。  初老の女が仏頂面のままソフィアを真正面に立った。 「バトラー家家政婦長、ガルシアにございます。よろしくお願いいたします」  家政婦長だと名乗った女は間違っても頭を下げたとは言い難く、まっすぐ前を見据えた挨拶はまるで目下の者へのもののようだった。 (歓迎されてないのね。そうよね)  ソフィアはこの先の生活に暗雲が立ち込めていることを感じ取って、暗澹たる心持ちになったが努めて態度を変えずに笑みを浮かべ続けた。 「よろしくお願いいたします。ソフィア·シューマンでございます」  ソフィアの挨拶に若い侍女が慌てて頭を下げたが、やはり家政婦長は微動だにしない。貴族相手に平民の人間がとる態度としては、若い侍女のものが正常だ。ソフィアの場合、堅苦しいのは好きではないので畏まった態度は要らないのだが、それにしても家政婦長のものは行き過ぎた感がある。 「ベールをつけさせていただきます。少し屈んでくださいませ」  口調のせいで叱責されたような不快感があったが、それにもソフィアは表情を崩さず素直に従った。 「美しいベールだわ」  細やかなレースに素直な感想を口にしたが、家政婦長ガルシアにはまるっきり無視をされた。  ソフィアは心の中でため息を漏らし、辺境の地に暮らす侯爵家など首都シュリアの人からしたら単なる田舎者に過ぎないのだろうと結論付けた。  景色はベール越しだとどうしたってぼんやりとしてしまう。ベールをつけ終えた家政婦長ガルシアの仏頂面を見なくて済んだのは利点と言って良かった。しかしながら、渡されたブーケの花々をしっかりと見ることが出来ないのは少々残念に思った。 (まぁ、いいじゃない。こんな私でも役に立つことが出来たのだもの、それで十分だわ)  これまで十九年間、ソフィアは自身の価値を見いだせなかった。この結婚で生まれて初めて父親から喜んで貰えたのだ。愛しているとは一度も言わぬ父だった。そして、夫になる人もまた一度もソフィアに愛を口にすることはないだろう。 (ヴィンセント様には美しい恋人がいらっしゃるのですもの。期待なんてしないわ)  噂に名高いグリーンアイには、ソフィアは映らない。この結婚は形ばかりのものであるのは、皆が知っていた。だから、ソフィアは花嫁らしい高揚感などなく、ただこの美しい日が何事もなく淡々と粛々と過ぎていくようと祈っていた。
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