憧れの人

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憧れの人

 10時45分 社用車の中  「ああぁの? 小泉先輩!」  小泉璃菜が運転する社用車の助手席に乗る渋谷咲は、申しなさげに小泉に声を掛ける。 「ん? どうした?」 「ああぁの? 今日は本当にすみませんでした! その……私のせいで、折角の……」  黒木先輩の楽しみを奪ってしまった。  今から向かうのは、作家の若瀬怜音の元だ。  そして、黒木先輩は、若瀬怜音の大ファンなのだ。  それを、自分のミスで奪ってしまったのだ。 「私ねぇ? 大学時代のインターンで、1ヵ月、堂城副編集長の元で働いたことがあるの?」 「えっ? マジですか? あぁすみません」  小泉の突然の告白に、思わず、ため口になってしまった。 「やっぱり! 驚くよねぇ? 皆に、この話しすると大抵みんな驚くだよねぇ? なんでか解んないけど」 「そうなんですか? 理由とか解らないんですか?」  自分の驚いてしまった身なので、人のことは言えない。 「理由か? 一つあり得るとしたら、当時の堂城副編集長のイメージかな?」 「イメージですか?」 「そう? 当時の堂城副編集長は、今、いる晴海じゃあなくて、黒蝶と言う政治や経済を扱う部署に所属してたの。そこで、副編集長は、みんなから死神って呼ばれたの?」 「なんですか? 怖すぎなんですけど。死神って」  堂城の怖すぎる昔のあだ名を知って、言葉を失い掛ける。  そんな渋谷に、小泉は少し声を落とした優しい声で、 「でも? 私は、そんな堂城副編集長に憧れ、この雫丘出版に入社しようって思ったんですか」 「えっ? 死神って呼ばれたんですよね? その、小泉先輩が、堂城副編集長の元インターンをしていた時?」  マジですか?   私だったら、絶対それで入社しようとは思わない。  なんなら、憧れなんて、絶対抱かない。  天変地異が起きたとしても。 「うん。呼ばれたよ。ましてやスクープの為なら、多少の犯罪行為や脅迫は日常茶飯事、それどころか取材対象に、自分の犯罪行為をバレされない為に、相手の一番の弱みを調べて、それを盾に、相手のこと脅してたからねぇ? まぁ? 今、晴海で同じようなことしたら、懲戒免職どころか最悪クビだろうねぇ?」 「いやいや。それ以前に、警察に捕まりますから。小泉先輩! なんで、その人……いやぁすみません」  仮にも、自分の上司であり、副編集長である人をそんな人と呼んでしまったことを謝る渋谷。 「気にしないっていいよ。むしろ渋谷ちゃんの言う通りだから」 「……小泉先輩?」  一瞬、寂しそうな表情をする小泉。 「渋谷ちゃん。渋谷ちゃんは今? 好き人いる?」 「へっ?」  急な話題の変更、それも、いきなり恋話に、渋谷は思わず「へっ?」と返事を返してしまう。  そんな渋谷に、小泉先輩は、運転手席から見える青空を見ながら、けど、どこか寂しそうな表情を浮かべながら、 「……私はねぇ? ずっと、片想いして人がいるんだ!」 「その人、気持ち伝えないんですか?」  首を振る小泉。 「……今後も伝える気持ちはないかなぁ?」 「なんですか? 好きなんですよねぇ? その人のことが?」 「好きだよ! だからこそ、告白しないの?」 「えっ! なんですか? 告白すればいいじゃないですか?」  渋谷は、告白する気がない、小泉に告白した方がいいとアシストする。  しかし、小泉から返ってきた言葉は、 「……私が好きになった人は、今、すごく幸せなの? だから、その幸せを私なんかの片想いなんかで奪っちゃいけないの?」 「……小泉先輩? 先輩の好きな人ってもしか…… 「あぁ! 渋谷ちゃん! 着いちゃったよ!」  渋谷が、答えを言い切る前に、小泉は、上から声を重ねる。 ★  
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