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政宗side不穏な呼び出し
「どうしたんですか。何か気持ち悪いですね、政宗さんがそんなに機嫌が良いと。」
そう、訝しげな顔で秘書の戌井に呟かれて、俺は指先で顎を撫でて顔を顰めた。
「…そうか?ちょっと髪型を変えたせいでそう見えるだけじゃないのか。」
執務室に続く、俺のチームだけが在籍するフロアから顔を覗かせた林さんが、俺の方を見て目を細めた。
「政宗さんがイメチェンするなんて初めてじゃないですか?どう言う心境の変化です?いつも考えるのが面倒だって同じ髪型、同じブランドにしてるじゃないですか。
…何か怪しいですね。」
チームの土台とも言える40代の林さんは女性のアルファで、ありがちな気の強さを上手に隠した頼れるチームの一員だった。そして色々な事に鋭いせいで、皆からある意味恐れられてもいる。
すると戌井がまるで骨を咥えた犬の様に満足げな表情を浮かべて、林さんに言った。
「ああ、そう言う事。さすが林さん、私の盲点を拾ってくれますね。政宗サンはきっと婚約者に、もっと短い方が似合う~とでも言われたんでしょ。あーあ、こいつがそんな風になるなんて、ヤダヤダ。
もっとも西園寺グループにとっては良い事ですけどね。髪型で婚約者ともっと仲良くなるなら、毎週サロンの予約入れますよ。入れましょうか?まじで。」
すっかり面白がられて居心地が悪くなった俺は、手を振って言った。
「くだらない事言ってないで仕事しろ。まだ詰める事あるだろう?」
チームの面々がニヤニヤしているのに気づかないふりをしながら、それでも珍しく短髪にしようとした理由が葵だったのは本当だったので、思わず浮かぶニヤつきを堪えて俯いた。
葵は髪が短い方が便利だと言う意味で言っただけだと分かっているが、あの微笑んだ眼差しに従いたくなったのは確かだった。いつも先頭に立って進むことしかしてこなかったけれど、葵と一緒にいる時はその役割は求められない。
俺に対して欲求があるとすれば、交わる時だけだ。あのふしだらで淫らな要求…。
仕事中にそんな事を考えてしまった事にハッとして顔を上げると、呆れた様な眼差しで戌井が俺を見て肩をすくめた。それ以上何も言わないでいてくれて、正直有り難かった。
だから退勤直前に、特に約束もしていないのに珍しく葵からのメッセージを受けて、どこか浮き立つ気持ちでメッセージを開いた俺は画面を見つめて顔を顰めた。
どう言う事だ?愛人の所有について話し合いたい?
俺は立ち上がると、戌井に言った。
「急ぎで行かないといけなくなった。特に何かなければ帰りたいが、大丈夫か。」
戌井は顔を上げると、俺の顔を見て眉を顰めた。
「…何だ。問題勃発か?特に急ぎの件があるわけじゃないから大丈夫だが…。どうしようもなくなる前に必ず相談してくれよ?お前はちょっと突っ走り過ぎるところがあるからな。」
俺は戌井に用意してもらった車の後部座席に乗り込むと葵に電話した。行き違いになっては不味い。このまま話ができずにモヤモヤするのも嫌だったので押しかけるつもりだった。
コンシェルジュは居なかったけれど、何重にも防犯を考えられているマンションのカメラを睨む様にして、俺は解除されたロビーへ入った。父親所有のマンションという事だったが、Ωの葵ならやはりコンシェルジュの居るマンションの方が安全なのではないだろうか。
けれど近いうちに俺と結婚生活を始めるかもしれないと思い直して、今住んでる自分のマンションより戸建ての方が良いだろうかと考えながらエレベーターに乗り込んだ。
部屋のインターホンを鳴らすと、カチリと鍵を解除する機械音の後に葵の声が聞こえた。何だか素っ気ない物言いと対応にちょっと雲行きを怪しく感じたのは確かだった。
明るいグレーホワイトのフローリングは葵の柔らかな印象とマッチしていて、手が離せないと葵が言った通りに奥の方で何か音がしている。玄関の正面に飾られた明るい抽象画と柔らかな小花がふんわりと飾られた花瓶を横目に、部屋の奥へと廊下を曲がった。
開放的なリビングの大きな窓から少し離れた場所にある有名な神社の林が見えて、便利な場所の割にロケーションが素晴らしいマンションだと思った。
座る様に言われたものの、いつもとどこか違う葵の雰囲気に俺は様子を窺った。目の前の洒落たキッチンに立つ葵は、両手にワイングラスを掴むと冷ややかな笑みを浮かべて俺の側をすり抜けた。
状況が分からないから、ワインクーラーの氷を響かせてボトルを持ち上げて、おもむろにワインを注ぐ葵を見守る事しか出来ない。
飲みたい気分だと言う葵が、やはりいつになく素っ気ない気がして、俺の警戒アラームは鳴り続けた。
何だ?愛人の取り決め?まさか葵に愛人が出来たとかそう言う事なのか?そう考え始めると、腹の底がぐつぐつ煮えてくる気がして、俺はワインどころじゃないと思った。
俺は婚約者にここまで軽んじられる気はないんだ。けれども、いつもなら優しく綻ばせるその眼差しが冴え冴えと俺を見つめて、葵の口から出てきた言葉に俺は一気に嫌な汗を感じた。
愛人って、俺の方の話なのか?
最近全く優一に会っていなかったせいで、すっかり彼の事を失念していた俺は、どう言う事なのか最初ピンと来なかった。何なら優一の事は都合よく俺の中から消去されていたんだ。
動揺した俺は手の中のワインをひと息に飲み干すと、少し咽せながらどう言う事なのか尋ねた。
「ふふ。まさか西園寺さんの愛人、もしかすると恋人なのかもしれないけど、あの彼から絵に描いたような挑発を受けるなんて全然思っていなかったから。今考えるとまるで安っぽいドラマに出演させられたみたいで、笑えるよね。」
面白がっている口調なのに、少しも笑っていない葵の瞳を見つめながら俺は酷く緊張していた。普段穏やかな葵がこんな風に頑なになっているのを見たのは初めてだった。
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