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小さな変化
清掃に入ってもらっておいたお陰でスッキリと片付いたホテルの部屋は、まるで午後に入ったその時と同じだった。違うのは窓から夜景が広がっている事と、西園寺と部屋に入るのが二度目と言う事だ。
「…結局忙しくて食べ損なってて。ルームサービスで葵さんも何か頼みますか。」
私は飲み損ねた食後のコーヒーを、紅茶に変えて一緒に頼んでもらった。注文を終えた西園寺は、疲れた様子でため息をつくと首元に指を差し込んでネクタイを緩ませた。
こんな時間まで食事抜きのせいか、顔色が冴えない西園寺からさっさとジャケットを脱がせてクローゼットにしまった。
「今夜泊まるつもり?私は換えの下着を持って来たけど、西園寺さんは持ってないでしょう?流石に私のではサイズが合わないだろうし…。それともコンシェルジュに頼めるのかな。」
そう呟きながらクローゼットの側に置いたバックを探っていると、いつの間にか後ろに来ていた西園寺が私を抱き寄せて来た。すっかり慣れた西園寺の匂いは、まだその攻撃性を見せていない。
「婚約者との情事の後に別の男と食事するなんて、随分と無神経なんですね。しかもアルファの男と。彼の弟が同級生だけど、胡散臭い奴ですよ。あいつの兄貴なんだから、きっと同じでしょ。」
この時、流石に私でも西園寺がヤキモチを妬いているのに気がついた。アルファというのは、形ばかりの婚約者にも独占欲を見せるらしい。思わずクスッと笑って振り向くと、顰めた顔で私を見つめる西園寺を見上げて首を傾げた。
「せっかく素敵なレストランで食事するのに誰かと一緒の方が良いでしょう?西園寺さんはお仕事だったし、友人を誘っただけだよ。彼はΩの弟を溺愛しててね?その流れで私のこともまるで保護者の様に気遣ってくれてるんだ。
アルファにしては珍しいタイプなのさ、三好は。」
私がそう言うと、ますます顔を顰めた西園寺は急に身を離すと、窓側に向いたソファへ座ってしまった。
「…俺にはΩの事はよく分からないですね。俺の家は身内のΩと言えば従姉妹に一人居るくらいで、彼女ともそう顔を合わせるわけじゃない。」
そうぶっきらぼうに言った西園寺は、窓に映り込む私を見ているみたいだった。
「私も自分がΩでなかったら敢えて知ろうとなんてしなかったと思うよ。三好は弟くんを溺愛してるからね。それこそ病的な溺愛だよ、あれ。」
そう言ったところで、ルームサービスが届いた様だった。西園寺が受け取りに行ったので、私は手を洗うために洗面台に立った。鏡にはこれからの事を期待した眼差しの自分が映り込んだ。
昼間散々したと言うのに、西園寺の味を欲しがる自分に呆れてしまう。そもそも今の西園寺のフェロモンから判断するとそういうつもりではないかもしれないのに。西園寺と婚約してから馬鹿みたいに盛っている自分は、無意識にこの婚約に浮かれているのだろうか。
『如月は自分のことがよく分かっていない』そうさっきレストランで三好に言われた言葉を思い出して、自分のことなんて案外誰も分かっていないものなんじゃないかとため息をついて部屋に戻った。
「欲しかったら食べていいですよ。」
テーブルに並べられたいくつかの軽食を前にそう西園寺に言われて、私は苦笑して自分用の紅茶をポットからカップに注いだ。
「そう言われても、さっきコース食べたばかりだからね。とても美味しそうだから食べられないのは残念だけど。…西園寺さんて最初からここに戻るつもりだった?私が聞き逃したのかな?」
すると西園寺は口を動かしながら首を振った。かと言って説明するつもりもない様子で、黙々と食事を済ませていった。私はさっき食べたばかりで、それを眺めているのも胸焼けがしそうだった。
紅茶を一杯だけ飲んで付き合うと、窓辺に備えつきの細長い革張りのベンチに腰掛けてぼんやり夜景を眺めていた。
「…迷惑でしたか?」
突然そう声を掛けられて、私はすっかり食事を終えてワゴンに皿を下げ始めた西園寺の方を振り返った。少し顔色が良くなった様に見える西園寺は、私を窺う様に見ている。
「迷惑じゃないよ?一人でこの夜景を堪能するのも贅沢だけど、こんな月明かりの夜は誰かと一緒の方がロマンティックだし。」
自分の口から思いもしない言葉が溢れて、私は年甲斐も無く青臭い事を言ってしまったと恥ずかしくなった。気まずい私に西園寺がニヤリと笑った気がして睨むと、わざわざワゴンを押して扉の外へ出しに行ってしまった。
「満腹だと料理の匂いも無い方がいいでしょうから…。」
珍しく私を気遣う様な事を言いながら戻って来た西園寺に感謝の笑みを浮かべると、西園寺は私の反対側の窓辺に座って夜空を仰ぎ見た。
「…この窓辺のベンチが何の為にあるのか今まで気にしなかったけど、なるほどこうして楽しむ為にあるんですね。まだ満月じゃないけど。
そう言えば、6月の満月はストロベリームーンって呼ぶって知ってましたか?意味は…。まぁ、それは良いとして、知らなかった?はは、俺の方がよっぽどロマンティックかもしれない。まだまだですね、葵は。」
いきなり呼び捨てにされて、私はドキンと心臓を鳴らした。こんな親密な雰囲気で呼び方を変えられたら何だか妙に落ち着かない。
「伊達に俺たち寝てないから、葵のフェロモンのちょっとした変化も感じられる様になりましたよ。…俺が欲しい?」
ニヤリと笑った年下の男にそう揶揄われて、私は口を尖らせて目を逸らした。
「…随分言うね。ロマンティックさは負けを認めるけど、まだ見せたことのない私のテクニックに翻弄されても知らないよ?」
すると西園寺がクラリとさせる匂いを強くして、窓枠に置いた私の指を意味深に撫でた。
「ああ、もう少し腹ごなししたら受けて立ちましょう。いつも手練手管を出す前に切羽詰まってしまうから、俺も体力ばかりじゃないって所をお披露目しますよ。
…あと、俺のこともそろそろ名前で呼んでくれても良いですよ。婚約者らしくね。」
ストロベリームーン、今夜はまだ欠けている。
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