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それからは、楽ではなかった。
父がいなくなった後のわたしは、『裕福なぼっちゃん』ではなくなったし、父が買った恨みを恐れて街にもいられなくなった。
母の実家である、遠い田舎町に移り住み、そこで暮らした。
幸い、私は能力に恵まれていた。
もちろん、努力のおかげだけでどん底から返り咲いたのだ、とまで言う傲慢さまでは持っていない。
幼少期の恵まれた環境が物を言った面もあるだろう。
生得して優れた能力を持っていること自体が天恵でもあろう。
根本的に判断には運も絡むものだ。
……それはさておき。
私は奨学金を得て大学を出、起業し、金を得た。
かつての父に負けないほどの……ではない。
最低限以上の汚職に手を出す気がしなかったので、おのずから限界はあった。
あの、殺し屋の女の手紙が、私の頭にこびりついていた。
※
ある夕方のことだった。
私は、公園を歩いていた。
歩きながら、胸にある予感があった。
そして、
「こんばんは」
という声を聞いて、振り向いた。
やはり、ブランコに女が座っている。
あの時の女殺し屋に見えた。
不思議なほど老けていない。
夕闇でしわが分からなかっただけなのかもしれないが。
まあ、そんなことは重要ではない。
「こんばんは」
「お久しぶりね、ボク」
「やはり、あの時のあなたですか」
「ええ」
「今度は誰かに頼まれて、私を殺しに来たのですか?」
「裏社会と関係のないターゲットの仕事は、あまり請け負わないようにしてるの……例外がないとは言わないけど」
「ならば、私はおそらくはセーフでしょう」
「ええ、調べ上げたけど立派なものね」
「立派でなければ、今日ここで殺す気でしたか」
「まさか。別に私は正義の断罪官じゃないわ」
「ふむ」
「これをどうぞ」
女は私に一本のナイフを渡した。
「これは?」
「その気があるなら、私を刺してもいい」
「ご冗談でしょう」
「いいえ。抵抗もしない」
「……やめておきましょう。私は父でもあなたでもないので」
私はナイフの柄を向けて女に返した。
「なるほどね」
女は立ち上がった。
「私の贖罪をあなたにやってもらうのは無理だったようだわ」
「殺した相手の身内に会って歩いてるんですか?」
「気が向いた時に会うだけよ……それで死ねれば、それもよしね」
「まだ成功してないようですね」
「ええ、不思議とね」
女は手を振って歩き去った。
あの殺し屋の女を称賛するつもりはない。
仮にあの手紙が私に道を過たせなかったとしてもだ。
ただ……あの時、刺す気にもなれなかった。
それだけのことである。
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