夏が始まる

1/1
前へ
/29ページ
次へ

夏が始まる

「日本で一番暑いまち」として有名な埼玉県の熊谷市に伊藤明里(いとうあかり)は住んでいた。 百貨店前に設置された大温度計が、国内観測史上最高の四十一、一度を記録した。 「明里って汗かかなさそうだよね」 下敷きで首筋を扇ぎながら、隣の席の山田さんが話しかけてくる。 「いや、普通にかくよ」 せめて陽が落ちてから帰りたいなと明里は教室の窓から外を見た。 まだ太陽は真上近くにあった。 「明里は色白だから、涼しそうに見えるんだよね」 ソフトボール部の山田さんは日に焼けて健康そうな肌をしている。 「部活してないし、あまり屋外に出ないからかな」 中学までは陸上をやっていた。 肌は日に焼けていて、髪も短く切っていたから、男子に間違われることも少なくなかった。 「んじゃ、行くわ」 「じゃね」 友達が呼びに来て、山田さんは帰っていった。 球技は苦手だったが、小学生の頃は陸上でジュニア選手に選ばれるほど足が速かった。 小中と皆勤賞の健康優良児で、病気には無縁、親からは手のかからない子供だといわれる。 勉強が得意で、頭はそこそこ良かった。 今は部活よりも勉強に力を注いでいる。   明里は授業のノートをスマホで撮影し、今日学校を休んでいる友人に送った。   入り口が騒がしくなり、サッカー部の佐々木くんたちが教室に入ってきた。 「おい伊藤~!麗美ちゃん、今日はどうしたの?学校休み?」 佐々木君は明里を見つけると机のそばまでやってきた。 櫻井麗美(さくらいれみ)は明里の幼馴染だ。 「なんか、今日は学校休むって。親戚の法事みたい」 いつも明里と一緒にいる麗美が、今日は見当たらないから気になったのだろう。 麗美は芸能界にいそうなくらい可愛い顔をしている。けれど人見知りだ。消極的で気が弱い。 「そーか。残念、癒やしが……俺らの癒やしが……」 落ち込んだふりをする佐々木君が、どさくさに紛れて明里にくっついてこようとする。 明里は一歩後退り、彼をかわした。 いつもモテる麗美の代わりに男子たちの対応は明里がしている。 明里は、要領が良かったので、そんなことでも上手にやってのけた。 「明日説明会で学校休みだから、みんなで集まってどっか行こうかって話してんだ。麗美ちゃんも誘おうかなって思ったんだけど?」 誘うなら直接麗美に聞いてくれたらいいのに。 ……私が断るのもどうかと思うんだが。 間違いなく麗美は行かないだろう。 「どうだろうねぇ?まだこっちに帰って来てないんじゃないかな?親戚は遠方の人みたいだから」 彼女の代わりに返事をしておく。 まぁ、いつもの事だから慣れたもんだけど。 佐々木君との会話を隣で聞いている、背の高い彼の名前は門脇稜太(かどわきりょうた)。彼はイケメンだった。そして欧米人並みに身体が大きかった。 「佐々木、お前本人に直で聞けよ、伊藤は麗美ちゃんのマネージャーじゃないんだから」 門脇君が横から話に入ってきて、佐々木くんを軽く諌めてくれた。 見た目が強そうだから、いつもは怖がられている門脇君。 たまに的を射た事をいうので、明里は密かに凄いなと思っている。 門脇君とは話をしたことはないし、ただのクラスメートでしかない。 正直、彼の事はあまり知らない。 そんなやり取りをしていると、クラスでもカースト上位のグループに属する桜ちゃんが話に入ってきた。 髪に命を懸けてそうなサラサラヘアが見事だ。 「でも、あれだよねー。いつも麗美の『お断り』の返事を伊藤がしているのはどうかと思うなー」 彼女は少し間延びした調子で話し出す。 それを他人から言われる度に、幼馴染としては麗美が気の毒になる。 麗美は人前で自分の意見を言う事が苦手なだけだ。 彼女は顔が可愛いせいか、女子達から変な嫉妬心の標的にされる。 「麗美は恥ずかしがり屋さん。気が小さいだけだから、悪気はないよ」 「そこがまた可愛いとこだよな。守ってあげたいという男心を刺激する……稜太!お前が話しかけたら麗美ちゃん怖くて気絶しちゃうんじゃね?」 佐々木君がデレた顔で、門脇君に話を振る。 「門脇君はぁ、背が高くて無口だからぁ、威圧感がハンパないしねー」 ははは、と笑いながら桜ちゃんが話にのっかる。 彼女は門脇君をからかっているけど、実は構ってもらいたいとわかる。 桜ちゃんは絡んで会話を引き延ばしたいタイプの子だ。 「……いや、俺も必要な時には話すよ。必要じゃない時は聞いている。ただそれだけ」 特に気にした様子もなく、門脇君がひょうひょうと答えた。 いったん話に区切りがついたようだ。 「そかそか、それじゃ、私はこれにて失礼いたします。帰るね」 ダラダラおしゃべりするとなんだか悪口大会みたいになりそうなので、鞄を持って明里は席を立った。 一応エアコンが効いている校舎を出ると、外はむせ返るような暑さだ。 梅雨が終わり、本格的に夏が始まる。  
/29ページ

最初のコメントを投稿しよう!

40人が本棚に入れています
本棚に追加