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10.雨
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雨は降ったり止んだりをくり返した。強くはならないものの、ぴたっと止むこともない。
――なんか、この煮え切らなさ。俺みたいだ。
そんなことを悶々と考えながら、なんとかゴール地点の神社までたどり着いた。
本当なら、ここまで上ってくれば見えるはずの日本一の山のてっぺんも、雲に覆われてまったく見えない。かろうじて、幾重にも重なる山々の隙間から雲海が漂う姿が幽玄と言えなくもない。
なにはともあれ、目標にしていた時間内にゴールは達成だ。参加賞のクリアファイルを無事受け取り、全員千野に献上する。
「やったー! 心の友よ。――このあとどうする?」
「むこうで郷土料とお菓子が食べ放題らしい。行こう」
できれば解散したかった。
さっきの神社で、壮真の言葉をはぐらかしてしまってから、ずっと居心地が悪い。
とはいえここで一人だけ抜けるのもおかしな話だし――
結局、皆で郷土料理の汁物の列に向かった。ロゲイニングの参加者以外にも、単純に祭りにだけ参加している参加者もいるから、列は長くなる一方だ。
「――」
並んで向かっていた壮真が不意に足を止め、少し脇に避ける。
「?」
――ああ、先にしてくれたんだ。
ありがと、と言おうとしたところで、子供連れの母親が二組やってきて、棗と壮真の間に入ってしまった。壮真は嫌な顔一つせず、後ろに並び直している。
――榊は、大人だ。
根掘り葉掘り訊いてはいないから、詳しい事情はわからない。けれど、初めて会った日のあの涙を考えれば、きっとなにかつらいことが当時あったはずだ。
それでもこうして立派に成長して、その上周りにやさしくできる。
それに比べて、おれは――
郷土料理の平たい麵が入った器を受け取って、先に座れそうなところを探しておいてくれた千野と長谷部の元に向かう。
最後に戻って来たのは壮真で、なにも知らない千野が無邪気に「おっせー。冷めるじゃん」などと軽口を叩いている。
「榊は順番を譲ってあげてたから」――そう弁護しようとしたときだった。
「おまえ〈そうま〉だろ」
ぶしつけな声が割って入ってきた。
小久保だ。
「なんで、榊の名前」
小久保は県の中央の私立高校に通っている。壮真とは、町民祭りのときが初対面のはずだった。
瑞穂に通う中学のときのクラスメイトにでも訊いたんだろうか。
「アカウント名だよ。五、六年前、ネットで話題になった」
小久保が見下すような口調で告げてくる。
「両親がインフルエンサーで、特にこいつの写真で稼いでたんだよ。その頃の横柄な態度がどんどんばらされて、今でも定期的に炎上してる」
「知ってたか?」と長谷部が千野に訊ねている。この中で一番ネット上の流行に詳しいのは千野だ。
「いや、俺好きな物しか見ないから。わざわざ嫌いな奴の名前で検索するって、不憫な奴」
その声が聞こえたのだろう。小久保の顔にいらだちが乗った。
「うるさい! ――とにかく、よくも町民祭りのときは俺を悪者にしてくれたな。おまえのほうがよっぽど迷惑インフルエンサーだったくせに」
言ってることがめちゃくちゃだ。
そもそも、五、六年前――棗と出会った頃だ――なら、壮真はまだ子供だ。望んでインフルエンサーだったわけではないだろう。
『――ガキの頃、親の趣味でヴィーガンとかなんとか、食が偏ってたんだよ』
『それも親の趣味。ヘアドネーションしろって』
今思えば、あの言葉は、両親に利用されていた証拠じゃないのか。出会った頃の壮真の表情が暗かったのはきっと、それで。
――あんな、小さい子供が。
それなのに、さらに炎上って。
おれにはわかる。どうしようもない悪意にさらされる恐怖が。
自分の手出しできないところで、悪意を持って自分のことが話題にされている。その苦しみが。
「――あっちで喰おう。相手にすることない」
壮真がみんなを促すと、小久保は口の端を歪めた。いやらしい、嫌な笑みだ。
「逃げんのかよ」
「逃げるんじゃなくて、馬鹿馬鹿しいから相手にしないんだ」
長谷部が器を手にしながら言い、千野も「そうそう」と頷いている。棗も立ち上がり、壮真の後を追おうとして、見てしまった。
壮真の瞳が、出会ったあの日と同じ暗い色をしているのを。
壮真は棗の視線に気がついて我に返ると、苦笑を見せた。そして、何事もなかったかのように、再度促す。
「行こう」
小久保の言うことなんて、聞き流せばいい。どうせ学校は違うのだ。今この瞬間だけやり過ごしてしまえば、明日からまた普通の暮らしが戻ってくる。
そう考えているのはわかる。
実際おれは、そうすることが心を守る唯一の方法だと思ってた。
――でも、本当にそれでいいのか?
中学のとき、一度でも黙ってしまった自分が情けなくて、そのことが、ずっと棗の行動を制限してきた。
壮真も、そんなふうになってしまわないだろうか。
「おい、待てよ!」
小久保が携帯を構えるのが見えた。――写真を撮るつもりだ。
『今も定期的に炎上』という言葉が、棗の脳裏をよぎった。
壮真の両親の影響力がどのくらいのものか棗には想像も出来ないが、一度失敗したインフルエンサーを叩くのが好きな層はいくらでもいるだろう。そこに、壮真の今の姿が投下されれば。
無責任な誹謗中傷が飛び交うことは想像がつく。
初めて会ったとき、壮真は泣いていた。今からは想像もつかないくらい小さくて、やせっぽちで――
もうあんなふうになって欲しくない。
「……ろよ」
震えながら声を絞り出した。息苦しいのは、雨があがって徐々に気温が上がり始めたせいだけではなかった。
「あ?」
威嚇するように言われると、心臓がぎゅっと締め付けられた。それでも、ゆっくり息を吐き、棗はくり返す。
「やめろよって、言った」
小久保は鼻を鳴らす。
「なんだよ、庇い合って気持ちわりいな。おまえら、デキてんのか」
「棗、俺はいいから。こんな奴の言うことなんか」
壮真が止めに入る。きっと自分たち――自分と、千野と長谷部がいるからだろう。この楽しい時間を、守ろうとしてくれている。
だけどおれは、榊にそんなふうに我慢して欲しくない。
だって榊は、もう充分苦しんできたはずだから――苦しんだのに、おれを助けてくれたんだから。
「気持ち悪いのは小久保のほうだろ! わざわざ人の過去をほじくり返して」
棗は壮真の制止を振り切って、小久保の前に出た。
「榊は子供だったんだよ。親の言うことをきくしかなかった。榊は何も悪くない」
小久保と目が合う。正直、怯んだ。
でも逃げたくない。ぐっと堪えて、にらみ返した。
「榊のことを、悪く言うな!」
言った。言ってしまった。こんな大きい声で、自分の考えてることを。
正直、これが精一杯だった。このあとなにか言われたら、もう反撃できないーー
だが、棗の耳に届いたのは、からかうような千野の声だった。
「小久保、びびってんじゃん」
「自分が舐めてた相手から想定外に反論されて、対処できないんだろう。子供の頃からエースで持ち上げられてる奴にいるタイプだな」
「うわ、だっさ」
そんな千野と長谷部のやりとりに、我に返った小久保が気色ばむ。
「ああ?」
「――小久保、とかいったな」
棗と小久保の間に、壮真が割って入った。その態度には、いつもの余裕が戻っているような気がした。
「おまえの親って、今年から瑞穂の町議だろう。今日も来てるんじゃないのか? 町の催しなんだから」
壮真が告げた瞬間、小久保の表情が強ばる。
「そうなんだ? 榊よく知ってるな」
「棗の敵を無策でほっとくわけないだろ。――まあ、姉が商売の根回しで町役場やら商工会やらに出入りするから自然とたどり着いたんだけど」
いつの間に、と棗は舌を巻く。自分は中学の一件以来小久保について考えることを避けていたから、気づいていなかった。考えてみれば、今まで祭りで顔を合わせたことはない。今年に限って会ってしまったのは、小久保が親に参加を命じられたからなんだろうか。
小久保は呻くように訊ねてくる。
「……それがなんだよ」
「別に?」
壮真はどこか楽しむように先を続けた。
「とっくの昔に旬の終わったインフルエンサーより、現役町議の息子の不祥事のほうが、ネットの奴らは喜ぶんじゃないかってこと」
言うなり、壮真はスマホのカメラを小久保に向ける。小久保は咄嗟に腕で顔を隠した。
その姿に、壮真が冷ややかに告げる。
「撮らねえよ。――撮られるのがどんなに苦痛か、俺は知ってるからな」
小久保が顔を引きつらせながらも、束の間安堵の表情を見せる。それを見計らったように、壮真は口の端を歪めた。
「ついでに言うと、どうやったらバズらせられるかもよく知ってるんだけど、どうする?」
どうする? と訊ねる壮真は笑顔で――けれど目の奥は笑っていない。
「――っ」
小久保は蛇に睨まれた小動物のように固まり、やがて踵を返すと走り出す。
棗はその背中をじっと睨み続けた。
その背が雑踏に紛れると、張り詰めていた糸がふつっと切れるように、全身から力が抜けた。
自分で思っていた以上に力が入ってしまっていたらしい。
くずおれかけた体を支えてくれたのは、壮真だ。
「あ……、ごめ」
すぐにしゃんと立ちたいのに、力が入らない。どうしよう、と焦っていると千野が「お」と声を上げた。
その声は千野だけでなく、境内にいた他の参加者の間にも広がっていく。
「――虹だ」
壮真の声に誘われて面を上げると、いつの間にか空に日が差していた。
雲海は薄くなり、空は雨に洗われてくっきりと青い。緑の山々の間から伸びる虹に、皆一斉に携帯のカメラを向けている。
壮真だけが、棗に向かって「綺麗だな」と微笑んだ。
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