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5.癒えない傷
いたたまれなくなって彼の元から逃げてきたのに、不思議と、沈みかけた沼から助け出されたような感覚があった。
「ご、ごめん、ジュース……」
待たせた上にこの有様だ。まっさきにそう詫びると、壮真は険しい表情になった。
「そんなことより、どうかしたのか? 顔が真っ青だぞ」
そんなに見てわかるほど狼狽えてしまっただろうか。情けない。「大丈夫」と取り繕おうとしたとき、小久保が再び棗の名を呼んだ。
「青柳――」
名前を呼ばれただけなのに、体が強ばってしまう。
いやだ。
きっとまた、酷い言葉を投げつけられる――
壮真は棗の肩を支えたまま、威嚇するように小久保を睨み付けた。
「なんの用だ」
威嚇を正面からくらった小久保は、一瞬怯んだことをごまかそうとでもするかのように、いらだちを露わにした。
「は? 元クラスメイトとちょっと話そうと思っただけだろ」
「本当にそれだけか?」
壮真が棗に訊ねてくる。――息が詰まって、うまく声にならない。壮真は再び小久保を睨み付けた。
「まあいい。本当にそれだけならさっさと失せろ」
「な――」
すげなくあしらわれ、小久保が気色ばむ。
「――こんなに苦しそうにしてるのに、手も貸さないなんて、どうせろくでもない奴なんだろ。そんな奴と話すことはこっちにはねえよ」
その言葉に、周りの人々がこちらに注意を向ける。
「なに? 誰か具合悪いの?」
「え、やだ喧嘩?」
「どこの子――?」
状況から見て、非難の視線は小久保に向かい始めている。それを悟ったのだろう。小久保は「なんだよ」と小さく捨て台詞を残して逃げるように去って行った。
雑踏に紛れて小久保の姿が見えなくなると、ふっと体の力が抜けた。知らず知らずのうちに、随分緊張してしまっていたらしい。
「取り敢えず日陰に移動するぞ」
言われるがまま壮真の手を借りて、雑踏を離れた。隣接する町民体育館の、日陰になっている部分の壁に背を預ける。
「大丈夫か?」
日陰に腰を下ろすと、やっと人心地ついて、棗は大きく息を吐いた。
「……また助けてもらったのに、ちゃんとお礼言えてなかった。ありがと」
「そんなことより、さっきの奴は? ――あいつになにかされたのか?」
「ううん、なにも――」
言いかけた棗を、壮真がじっと見つめる。
「なんにもなくて、そんなになるか?」
その眼差しはまっすぐで、ただの興味本位には思えなかった。
棗はもう一度ゆっくりと深く息を吸って、できるだけ心を落ち着かせる。
「……おれ、中一の頃両親が事故で死んだんだ」
もう何年も経っているのに、その言葉を口にすることは、まだ抵抗があった。
もう一度息を吸い、心の中で自分に言い聞かす。
落ち着け。落ち着け。いちいち傷つくな。
「それで、ずっと落ち込んでて、学校でも何も手に付かなくて、そしたら今の気持ちを全部書いてみたら? って先生が作文を進めてくれて……」
はじめはこわごわだったが、自分の考えを紙に書き出すのは、たしかに救いになった。
一緒に暮らしている祖母にも言えない気持ちが沢山あった。子供を失って誰よりも哀しんでいるのは祖母なのだと思うと、なにも言えなかったから。
両親が亡くなってからずっと、頭の中に複雑に絡んで解けなくなってしまった網のようなものが、ぎゅうぎゅうに詰まっているような気がしていた。
それを少しずつ少しずつ解いて紙に書き出すことで、頭と心が整理されていったのはたしかだ。提案してくれた教師に感謝もした。
でも、そのあとが良くなかった。
「先生がその作文を勝手にコンクール応募して、うっかり受賞しちゃったんだ」
教師はみんなの前で棗を褒めた。今思えば、教師なりに棗が立ち直れるようにと言う気遣いだったのだと思う。
「そしたら、小久保――さっきの奴が『いいよな、親が死んで点数稼げて』って」
明らかにひどい言いがかり。けれど、そのときの棗には、それを突っぱねるだけの強さはなかった。自分の考えを書き出してまとめることで、どうにか息を吹き返しかけていた心は再び粉々に砕かれた。
小久保はクラスの中心だったから、彼の考えに同調するクラスメイトもいたらしい。
らしい、というのは棗を除いたグループチャットが作られたからだ。親切のつもりなのか、そこで語られる内容を耳打ちしてくるクラスメイトもいた。今となっては思い出したくもない、酷い内容を。
「……それからおれ、自分の考えを人に話すのが怖くなっちゃって」
自分の考えを全てさらけ出すということは、無防備になるということだ。
だからいつも、曖昧な笑みでごまかしてしまう。
「相手にどう思われるのか、わからないのが怖い」
ごまかしているうちに、断ることができない、なんでも引き受けてくれる都合のいい奴になってしまった。
壮真はじっと押し黙っている。自分から求めたとはいえ、重すぎる内容だったからだろう。喋り過ぎた、と思うと、急速に顔が熱くなった。
そんな棗をよそに、壮真はおもむろに立ち上がる。
「――よし」
「? どこいくの?」
「さっきの小久保とかいう奴をぶん殴ってやる」
「えっ、駄目だよ!」
思わず声を上げると、壮真は一瞬考えたあと、無言で腰まで下ろしていたティラノを再び頭から被った。
「面が割れなきゃいいとかいう問題じゃないから!」
突っ込むと、壮真は渋々とティラノを脱いだ。
「そうだな。もっと証拠の残らない方法を考えよう」
「もっと駄目だよ!」
どうしてさらに周到にやろうとしているのか。まったく油断も隙もないイケメンだ。
いっそ面白くなって、棗は思わず笑ってしまう。
「っていうか、結構気に入ってるよね、ティラノ」
すると壮真も、嬉しそうに相好を崩した。
「――やっと笑った」
柔らかく目を細めた笑み。転校初日に睨み付けられたのとは、大違いだ。
だが壮真はすぐにまた表情を引き締めた。
「これだけははっきりさせとくぞ。おまえはなにひとつ悪くない。」
真っ直ぐに告げられる言葉は、棗の心にしみた。まるで、乾いた砂漠に水が注がれたかのように。
「おまえが嫌がることをしてくる奴に、おまえがやさしく応じることはない。殴られたら、殴り返すべきだ」
「そんな――あれ」
穏やかでない発言を窘めようと思ったとき、つう、となにかが頬を伝わり落ちていった。
棗は慌てて目じりを拭う。
なぜ、泣いてるんだろう。それも、会ったばかりの壮真の前で。
「……これは、その、汗だから」
あれ、と思う。
似たようなやりとりを、前にどこかでした気がする。
いつ、誰とだったか……だめだ、思い出せない。
「汗かいたから、水分摂ったほうがいいな」
棗が落ち着いたのを見計らったのか、壮真がごく何気ない調子でそう言って、腰を上げた。
「あ、うん」
そうだった。元はといえば、礼の飲み物を買いに行ったのに。
再び屋台の並ぶグランドに戻る。そっと辺りをうかがったが、小久保の姿はないようだった。
安堵しつつ柚子ジュースの売店に向かって注文すると、店主が頭を下げてきた。
「すみません、これが最後の一杯で。今日は予想外に暑かったからねえ」
「じゃあおれは自販機でなんか適当に買うから、榊――」
そう提案したときにはもう、壮真が支払いを済ませていていた。
「ん」
そして、当たり前のように涼しげに汗をかいたプラカップを棗に差し出してくる。自分のほうがよっぽど汗をかいたはずなのに。
「……榊は、なんでおれを助けてくれるの?」
初日こそ睨まれたものの、以降はなんだかんだ助けられている。
初日だって、怒っていてもきちんと礼を言う礼儀正しさがあった。悪い奴ではないのだと思う。
でも、じゃあ、いきなり睨まれたのは?
どちらが本当の榊の姿なのかわからなくて、戸惑う。
じっと見つめていると、壮真の瞳がなぜか翳ったように思えた。
「――まだ思い出さないのか」
壮真がなにか言ったように思えたが、キイーンとマイクのハウリング音が響いて、かき消されてしまった。
『――失礼しました。町民祭り開催委員より皆様にお願いです。ゴミの分別にご協力ください。ゴミの分別に――』
放送が終り、なんと言ったのか訊ねようと思っていると、ぬっと壮真の腕が伸びてきて、おもむろに額を弾かれた。
「い……ッ!」
「宿題」
壮真はそれだけ告げると、さっさと踵を返してしまう。
棗は額をさすりながら呟いた。
「宿題って、なに――?」
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