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息を切らして家にたどり着いた棗は、玄関の引き戸を勢いよく開いた。
「おばあちゃん――!」
「ああ、なっちゃん。ごめんねえ」
祖母は台所から廊下に顔を出す。
「ちょっと手を捻っただけなんだけど」
そう言いながら見せてくる手首には、湿布薬が貼られている。見たところ、そんなに大ごとではなさそうだ。
「良かった……いや、良くはないけど」
祖母の呑気な様子に気が抜けて、棗は玄関の三和土にへなへなとへたり込んでしまった。
どうやら出荷用の野菜を箱詰めしているところで手をひねり、ちょうどそこに遊びに来た壮真の姉――純菜じゅんなが病院につきそってくれた、という流れのようだ。ふたりは町民祭りで連絡先を交換していたらしい。
いつの間に。
「あの、有難うございました。助かりました」
棗は立ち上がると、深く腰を折った。
「いえいえ、ちょうど来てて良かった。今日の分の出荷は終わったけど、やりっぱなしで行っちゃったから、作業場の片づけだけお願いできる? 壮真、あんた手伝いなさい。私は晩御飯作るから」
「了解」
壮真はさっと上着を脱ぐと、シャツの腕をめくった。
「作業場ってどこ?」
「あ、うん、こっち」
玄関から再び外に出て、裏庭に回る。
トタン屋根の車庫兼作業場で段ボールや包装資材を片づけて戻ると、縁側の掃き出し窓が開いていた。醤油とみりんのいい香りが風に乗って運ばれてくる。
台所で、純菜と祖母の背中が楽しそうに並んでいるのが見える。
この家に、自分と祖母以外の人間の気配があるのは久し振りだ。なんだか家全体が活気づいている気がする。
「あっち片付いたの? ――ご飯もうすぐ出来るから、待っててね」
純菜が顔だけこちらに向けて、前半は壮真に、後半は棗にむかって告げた。
「あ、はい」
――と、返事はしたものの。
待つって、榊とふたりで?
気まずい……
取り敢えず間を持たせようと、縁側から家に上がって麦茶をグラスに入れてきた。それから、ちょっとしまったなと思う。
「あの、この辺の麦茶、砂糖入ってるんだけど、平気?」
他の地方では違うのだとテレビで取り上げられていたのを、不意に思い出したのだ。
縁側に腰を下ろしていた壮真は、少し怪訝そうな顔をしてから「そんなに深刻そうな顔して訊くほどのことか?」とグラスを受け取った。
「ありがとう」
壮真は律儀にそう言う。小さなことでもちゃんと礼を言うのは、壮真の美点のひとつだと思う。
棗は内心胸を撫で下ろして、壮真の隣に腰を下ろした。壮真は麦茶に口をつけながら、ぐるりと庭を見渡している。
「なんかいろんな実がなってて面白いな」
壮真が目を留めるのももっともで、この家の庭には、桃、李、柿などの果実のなる木が何種も植えられている。今は亡き祖父の趣味だ。
早生の桃や李は花が終り、葉の合間に小さな実が確認できるようになったころだった。胡桃や栗の花などは、都会育ちの壮真の目には珍しく映るのだろう。
「植えっぱなしだから、出荷できるようなのはならないんだけど、おれは子供のころからおやつがわりに食べてる」
「へえ、いいな。あれは? 林檎……じゃないよな」
壮真が一本の木に目を留めた。
背が高く、表皮に皺が刻まれた幹に、光沢があって小さな濃い緑色の葉が無数に茂っている。明らかに他の果樹とは様子の違う木だから、目を引いたのだろう。
「なつめ」
「――?」
「ああ、うん。おれの名前、この木からとったらしい」
今は花が咲き始めたばかりだが、もう少ししたら小さな青い実をつけるはずだ。
「花言葉が〈健康〉なんだって。実が漢方とかにも使われて、みんなの役に立つから」
健康で、世の中に必要とされる子になりますように。
子供の頃両親が語ってくれた言葉を口にすると、かすかに苦い味がする。今の自分は、全然健やかじゃないし、誰にも必要とされてない気がする。
「ああ、そういえば姉ちゃんが煎れる中国茶にそんなのが入ってた気もするな。こんな木なのか」
「珍しいよね。生の実はほんのり甘くて、青林檎みたいにしゃくしゃくして、俺は結構好き」
壮真はもの珍しそうに木を見上げる。
「棗――いい名前だな」
そんなふうにやさしい声音で褒められると、なんだか落ち着かなかった。
――名前を褒められただけ。それだけだから。
それに、両親のことを話したから、気を遣ってくれているのだろう。
そう思い当たると、さらに気恥ずかしさが増して、棗は頭を下げていた。
「あの、昨日はいきなり変なこと話してごめん」
「変なこと?」
「親のこととか……作文のこととか」
出会ったばかりの、転校生に。小久保に遭遇してしまった直後とはいえ、だいぶ距離感がおかしかったと思う。
「変なことなのか?」
「え?」
「その教師も、小久保って奴も、裏グループチャットに書き込んでた奴らも、おまえの気持ちを踏みにじるようなことをした。それに傷つくのは当たり前のことだろ。あのときも言ったけど、悪いのはおまえじゃなくて、そいつらだ」
「それはそう――だけど」
棗は面食らっていた。
「最近知り合った人相手にいきなり話すようなことじゃなかったよなって……」
戸惑う棗に、壮真は苦笑する。
「宿題、終わってないんだな」
「え?」
壮真は棗の疑問の声には答えずに、麦茶を飲み干す。
「誰かに話したら気持ちが軽くなるってこともあるだろ。こっちが半分背負えるっていうか」
「でも、それじゃ榊にはいいことないじゃないか」
千野にも長谷部にも、直接自分の口からつらいと漏らしたことはなかった。作文事件のときに一緒にいられなかったことを気にして、ずっと気にかけてくれるような彼らだからこそ。
あのふたりにだって話せないのに、知り合ったばかりの相手になんて。
「俺が半分こにしたくてするんだから、いいんだよ」
「――ん?」
なんだろう、どこかで聞いたようなフレーズだ。
どこで聞いたんだろう……
棗が記憶を探っていると、壮真が言った。
「――おまえがそう言ってくれただろ、アイス。神社で」
「え? ちょ」
頭の中が忙しなく回転して、さっきまでばらばらだった記憶の断片がつなぎ合わされていく。
いやまさか、だって。
でも、あのときは千野も長谷部もいなくて。だから、やりとりを知ってるのはおれと――
「あのときの子……?」
金魚のように口をぱくぱくさせてしまう棗に、壮真はわざとらしく眉根を寄せた。
「やっと思い出したか。薄情者」
「だって、あの子、凄く細くて、小さくて、こんなでかくて立派なイケメンに育ってるとか思わないし!」
「イケメンとは思ってくれてるんだな」
壮真は嬉しそうに笑みを浮かべるが、重要なのはそこではない、と思う。
「――ガキの頃、親の趣味でヴィーガンとかなんとか、食が偏ってたんだよ」
「髪もその、長くて凄く綺麗で……」
「それも親の趣味。ヘアドネーションしろって」
ヘアドネーション。そういえば聞いたことがある。
――病気で髪を失った人のために、ウィッグにする髪を提供すること――だったっけ?
考えてみれば、壮真は今でも大変目を引く美しい顔立ちなのだ。これで幼くしたら――棗は頭の中でシミュレーションしてみた。まるっきり少女のように見えたあの面影と重なる。あの、儚げな美少女に。
『棗は初恋の子ひとすじだもんな』
千野の言葉が頭をよぎると、なぜだか頬が熱を持った。
いやいや、あれは千野が面白がってただけだから。 おれは、そんなこと、別に。
あまりのことに、脳味噌の情報処理が追いつかない。困惑しているのに、さらに壮真は宣うのだ。
「俺は、あれが初恋だった」
「は、はつこい!?」
――大きな声が出てしまった。
棗は口元を押さえ、それからはっと気づいて台所の祖母と純菜をふり返った。幸い揚げ物に取りかかっているようで、こちらの様子には気がついていない。
「……ク、クラスの女子に、おれと仲良くないって言ってた」
このとんでもない話の着地点をどうにか見つけようと、棗はそう絞り出した。
「まだ、俺が思うほどは全然親しくないだろ?」
壮真は立ち聞きの無作法を責めることもせず、あっさり告げる。
いつの間にか日は傾いて、空には透明な青色と、蜜のような橙が入り交じっていた。夕暮れの空の色なんて見慣れたもののはずなのに、壮真がそれを背にすると、まるで絵画のように美しく目に映った。
「俺は、初恋を実らせに来たんだよ」
「え――」
なんだかとんでもないことを言われているような気がする。
「えと、その、ごめん、なんて?」
壮真は棗の声など聞こえなかったかのように庭に下りていった。
「棗」
『初恋を実らせに来た』と紡いだ、その同じ唇で名前を呼ばれて、心臓が小さく跳ねる。
壮真は、小さな花を咲かせ始めた棗の枝に手を添えていた。
あ、ああ、木のほうの棗か。
恥じ入っていると、壮真が訊ねてくる。
「これ、いつ頃実になんの?」
「ま、まだ先――夏の終りか、秋頃には?」
棗がしどろもどろに答えると、壮真は小さな花に顔を寄せた。
「へえ。……楽しみだな」
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