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8.放課後の教室で
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「今日は直接棗の家に来いって言われてる。一緒に帰ろう」
昼休みの終りがけにそう言われていた棗だが、放課後になると、壮真は職員室に呼び出されてしまった。
「すぐ終わるから、待ってて」
「あ、う、うん」
家の場所はわかっているのだから、別々に帰っても良かったのでは? と気がついたのは、待ちぼうけをくらって三十分ほどしてからだ。
瑞穂は交通の便があまりよくないから、部活に参加していない生徒はバスを逃さないようとにかくさっさと教室を出る。いつの間にか教室には棗一人が取り残されていた。
校舎はしんと静まり返り、野球部のかけ声だけが遠く聞こえている。
静かな教室で、突然どさっと音がして、棗は我に返った。
壮真が机の上に置いていった鞄と上着がずり落ちてしまったようだった。
上着を拾い上げて、棗は目を見張った。
「でっか」
壮真が長身なのはわかっているが、あらためて大きい。
あんな美少女だったのに。
あの頃のイメージと比べるから、より大きく感じるのだろうか。
「……」
よせばいいのに、つい魔が差した。大きさをより如実に計るために、羽織ってみようか、などと。
「――」
想像していたよりはるかに袖が余って、棗は少しへこんだ。
頼りなく泣いていた女の子が、こんなに立派になったのに、俺はあの頃からなんにも成長していない気がする。
――脱ご。
袖を引き抜くと、ふわっと、微かな香りが鼻をくすぐった。香水というほどではない。でも自分の匂いとも違う。壮真の匂いだ。
なんか、いいにお――いやいやいやいや。
なに考えてんの、おれ。
自分で自分の考えを打ち消して、慌てて上着を脱ぐ。
ちょうどそのとき、廊下からばたばたと慌ただしい足音が聞こえて来た。
「棗!」
教室に飛び込んで、後ろ手にドアを閉めるのは壮真だ。
「ひっ、わ、あの」
「隠れろ!」
「え?」
壮真は素早く教室を見渡すと、棗の腕を引っ張る。
わけがわからないまま、掃除ロッカーに押し込まれていた。
「え? え?」
触れなくても体温が伝わってくるほど、榊の頬が近くにある。上着を羽織ったときよりも、はっきり感じる、壮真の匂い。
「ど、どうした?」
状況が飲み込めず訊ねると、
「黙って」
と耳元で囁かれる。
そんなん余計に声が出ちゃうだろ……!
ひいっと漏れ出そうになった悲鳴を、必死で飲み込んでいると、ばたばたといくつかの足音が重なって聞こえ、教室のドアが乱暴に開け放たれた。
「あれ、いない?」
「こっちに来たの見えたから、教室だと思ったんだけどなー」
「逃がすなよ。絶対バスケ部に入ってもらう」
なるほど、部活の勧誘で追いかけられていたのか。
この間体育の授業でバスケをやったから、そのときの活躍が顧問の耳に届いたのだろう。瑞穂は合併したばかりの学校だから、運動部は特に名を上げることに必死だ。壮真ほどの人材を、放っておくわけはない。
「は? 榊はサッカー部だろ!」
どうやらサッカー部もいるようで、彼らはその場で「うちが」「いやうちが」と揉め始めた。
どっちでもいいから、早く出ていってほしい。
でないと、榊の体温が近すぎる。
さっき上着を羽織っただけで、壮真の体の大きさは感じていた。それが今、実態を伴ってすぐそばにある。間近で感じる壮真の体。シャツ越しにも引き締まった筋肉の存在が伝わって来る。
『だって初恋同士なんだから、もう付き合えばよくね?』
――なんでこんなときに思い出すかな、自分。
目を開けていると、距離が近すぎて壮真とまともに目が合ってしまう。自分が不埒なことを考えているのを見透かされてしまうような気がする。
それを避けたくて、棗はぎゅっと目を閉じた。
「――」
なぜか壮真が息を呑んだような気がした。
――榊も気まずいよな。男同士でこんな近距離。
壮真の体は、棗をすっぽり胸に抱くようにしないとロッカーの中に収まらない。
なるべく直接触れないよう、気を遣ってくれているのだろう。壮真は棗の背後に腕をついて踏ん張っている。ひどく窮屈そうだ。このままでは疲れてしまう。
なんとか壮真が楽に出来るようにと身をよじってみる。
そうだ、しゃがんだら、少なくとも目が合っちゃうことはないんじゃ――
そう思って、しゃがみ込もうとしてみたが、狭すぎて無理だった。
立てかけられているモップに触れて音を立ててしまい、壮真にぎろっと睨まれる。
――ご、ごめん。
目混ぜだけで謝る。
無駄な試みだった。そもそも壮真に言われて咄嗟に隠れてしまったが、自分が隠れる必要はあったのか。
「そろそろ俺らも戻らないと、練習時間なくなるな」
そのうち、誰かがそう言い出すのが聞こえた。最近は生徒の健康面を考慮して、あまり長時間の部活動は認められていないから、使える時間は限られている。
「明日も練習休みの日だもんな」
誰かがそう重ねると、諦めムードが漂うのが伝わってくる。
いいぞ、その調子。棗は念を送る。
「しゃーない。また今度だ」
「ああ、まあ、どうせバスケ部に来るのは決まってるしな」
「うちがもらうって言ってんだろ?」
「うちが」「いやうちが」と交わされる口論に、ドアが閉まる音が重なった。
壮真の肩越しに空気取りの穴から、どうにか教室の様子をうかがう。皆去ったようだ。
「行ったみたいだから、出よ」
早く出たい。息苦しい。でもずっと感じていたこの息苦しさが、狭さゆえなのかどうか、正直わからない。
「……なつめ」
「え」
名前を呼ばれて顔を上げると、壮真の顔がすぐそばにあった。
真剣な眼差しに射貫かれて、一瞬、息を止めてしまった。
瞬きできないまま、その瞳に吸い込まれそうになる。
ああ、この黒くて綺麗な瞳は、あの頃のままだ――
瞳に吸い込まれそうになったとき、スマホが振動する音がした。
二人の間で張り詰めていた空気が、ふっと霧散する。
壮真はさっと棗から離れ、ロッカーのドアを開けた。外に出ながら電話に出、ふり返って口元に人差し指を当てる。
「内緒な」という、仕草。
な、なにが――あ、電話か
校内での通話は禁止だ。自分が転校初日にやったから、それで。
けして――さっき、なんだか……とっても妙な雰囲気になってしまったことに対してではない。と、思う。
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