1.初めて恋したあのこは

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 やっぱり見間違いじゃないよな? 睨まれたよな?   疑問に包まれながら、午後の授業を受けた。その間ずっと、隣の席から視線の圧を感じた気がする。  なんで? なんでなの?  まあ、でも――  棗は目を伏せた。  人間なんて、ちょっと気に入らないというだけで、会ったこともない相手の誹謗中傷をSNSに書き込める生き物だ。きっと今回もその類いだろう。  取り敢えず、今日先生に言われた案内だけ終えれば、あとはお役御免だ。それまで堪えればいいだけだ。  拷問のような数時間が去り、ようやく放課後が訪れた。  千野と長谷部に着いてきてもらうことも一瞬考えたが、千野は深夜のなんとかチューバーの生配信に備えて早く帰って仮眠するのだと言い、長谷部はひとこと「部活」と言ってそれぞれに散っていった。  というわけで。 「えーと、ここがコミュニティルーム。グループ課題とかやるとき使うよ。あそこに見えるのは、工業科の実習棟。おれたちが行くことはほぼないけど」  棗は教師に言われた通り校内を一通り説明して歩いた。その間壮真は、むっつりと押し黙ったままだった。教室で野次馬根性丸出しにあれこれ質問されても、穏やかに応じていたのに、まるで別人のような態度だ。  ――気まずい。  おれ、やっぱり自分で気づかないうちになんかしたのか――?  だめだ、と棗はかぶりを振る。一旦こういう考えに陥ると、呼吸が苦しくなる。  いっそ怒鳴られたほうがまだ気が楽だ、と思ったとき、壮真が口を開いた。 「青柳」  来た。  怒鳴られたほうが――などと思っていたが、いざ来られると緊張で体が強ばってしまう。 『いいよな、青柳は』  かつて投げつけられた言葉が脳内によみがえりそうになったとき、制服のスラックスのポケットでスマホが震えた。画面に表示されているのは祖母の名だ。 「ばあちゃん?」  なにかあったのだろうか。さっきまで感じていたものとは別の緊張で、心臓がきゅっとする。  慌てて応答ボタンをタップしながら、壮真の存在を思い出してふり返った。 「校内での通話は基本的には禁止なんだけど、ばあちゃん入力苦手だから、間に合わないときはかけてきちゃって。――」 「内緒にして欲しい」というジェスチャーでとっさに唇に人差し指をあてがう。それから、廊下の隅に寄った。 「え? 学校帰りに買い物?」  ひとまず、祖母の身になにかあった訳ではないようだ。 『ごめんねえ。お醤油切らしてたの忘れてて』 「ううん、全然大丈夫」  祖母はまだまだ現役の農家で、自分で軽トラを運転できる。とはいえ、一日働いたあとに、醤油一本のためにわざわざ車を出させたくない。  祖母は申し訳なさそうにしていたが、棗にとってはむしろ有り難かった。あのまま壮真と二人でいたら、気まずい空気を持て余していただろう。  これで用事が出来たって言えるし――と思いながら壮真のところに戻ると「あ、い たいたー」と廊下の端から声がして、あっという間に囲まれてしまった。クラスの女子だ。 「ねえねえ榊君たち、このあとカラオケ行かない?」 「えっと」  一時間程度の寄り道なら、別に構わない。でも、すんなり帰れるだろうか。それ以上遅れると、家から一番近いスーパーは閉まってしまう。田舎の悲しみだ。  それにこれ、本命は榊だろうしなあ。  たち、とは声をかけられたものの、彼女たちの瞳には、壮真しか映っていない。  つまりは棗は体のいいダシ。見目のいい転校生一人を初日から誘うのは、あんまりにも下心が見え見えだから。  正直に言って断りたい。  でも、断れないのがおれなんだよな。  諦観と共に曖昧な笑みを顔に貼り付け「いいよ」まで口にしかけたときだった。 「ごめん。俺たち、このあと職員室に呼ばれてるから」  棗の言葉をさえぎったのは、さっきまでむすっと黙っていた壮真だった。棗に向けていた表情とは正反対の、にこやかな顔で。 「え~、そんなの、すぐ終わるでしょ?」 「ちょっとわからないな。――行こう、青柳」  壮真はあっさり彼女たちの相手を切り上げると、棗の手を取ってずんずん歩き出した。 「え、あ、うん?」  棗は半ば引きずられるようにして歩きながら、長身の背中を見上げる。 『俺たち、先生に呼ばれてるから』  なんでそんな嘘を?  ていうか、手。いきなり握られるとか――親しくもないのに。  壮真のほうでもそれに気がついたようだ。女子の姿が見えないところまで来ると、はっと我に返ったような顔をして、棗の手を放した。  無意識だったんだろうか。それでも、助けられたことは確かだ。 「あの、ありがと、助けて? くれて」  多分だけど、おれが困っているのを見かねて――だよな?  壮真の手は、その長身に似つかわしく、棗のものより大きかった。突飛な行動に面食らいはしたが、同時にその力強さに守られたような感覚があった。  が、壮真の返答はそっけない。そこにはもう、笑顔の片鱗もなかった。 「別に。へらへらしてたからムカついただけだ」 「へらへらなんか――」  いや、してたな。してた。自覚はある。  棗は静かにため息をついた。 「……おれ、断るの苦手で。ああいうとき、強く出られないんだ」  言葉にすると、我ながら情けなさがこみ上げてくる。棗はそれをへらっと苦笑でごまかした。きっとさっき彼女たちに対しても、同じ顔をしていたはずだ。  おれは、怖い。自分の、本当の気持ちを話すのが。 「駄目だな、おれ」  自嘲して面を上げると、壮真はまた、ひどく険しい顔でこちらを見ていた。 「おまえは――」  いったいなにがそんなに気に障ったのか、壮真は声に怒りを滲ませて、棗を壁際に追い詰めた。壮真の両腕の間に閉じ込められるような形だ。  整った顔立ちに鋭い眼光が加わると、妙に迫力がある。  ――な、なになになになに!?  突然の苛立ちの意味がわからず、震え上がる。  そのとき、階段の上から高いトーンの話し声が響いてきた。女子生徒が数人やってくるようだ。  壮真もその声で我に返ったようだ。棗を追い詰めていた体を起すと、不機嫌そうに「帰る」とだけ告げると、くるりと踵を返した。 「な、なんだったんだ……」  呆然とその背を見送っていると、壮真が足を止めてふり返った。  ――ヒイっ  聞こえちゃった?  震え上がる棗に、壮真はぼそりと告げる。 「――案内、ありがと」 「お、あ、う、うん……?」  なんだか怒ってんのに、お礼はちゃんと言うんだ。  訳がわからない――棗は力なく壁に背中を預け、ふう、と息を吐く。ぐったりする棗の前を、女子生徒たちが賑やかに話しながら通り過ぎていく。彼女たちの姿に紛れて、壮真の背中も見えなくなった。  軽く校内を案内しただけだというのに、ひどく消耗した。  ――とにかくこれでお役御免だ。  明日からは、関わらないようにすればいいだろう。 「さ、買い物買い物」  自分を鼓舞するように口に出し、壁から背中を引き剥がす。苦役から解放された喜びで、心なしか体が軽い。  でも、と思う。  なんでおれ、あんなわけわかんない奴に、本当の気持ちをちょっと話しちゃったんだろう?  
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