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壮真が帰宅すると、土間の作業場にいた姉が声をかけてきた。姉は住居兼アトリエのこの家で、ガラス工芸作家をしている。
「おー、どうだった初日」
壮真はそんな声を無視して、二階の自室に直行した。十歳離れた姉が同居を申し出てくれなければ、瑞穂に編入することなど出来なかったのはわかっているのだが、今日ばかりは許して欲しい。
一言でも発したら、棗の記憶がこぼれ落ちてしまう気がするのだ。
子供の頃、ひと夏だけこの町の親戚の家に預けられた。親の都合で。
親の都合だし、預けられたのはうんざりするような田舎だし、これまた親の都合で伸ばしていた髪はクソ暑いし――腐っていたとき、出会った少年がいた。それが棗だ。
「めっっっっっっっっっちゃくちゃ可愛くなってたな……」
壮真はベッドに仰向けに寝転んで、顔を覆った。そうすると、まなうらに今日一日の棗の姿が次々と浮かんでくる。
棗は自分を助けてくれたあの頃のまま大きくなっていた。いや、想像よりはるかに可愛くなっていた。
特に祖母から電話がかかってきたときのあの仕草はなんだ。
『内緒にして』
声にはせずに仕草だけで訴えてきた、あの唇。あの上目遣い――
可愛らしい唇の前に可愛らしい指をかざすのだから、可愛さが限界突破だ。ハートを撃ち抜かれるって、こういうことを言うのだろう。
しかもどうも内容は、祖母のお使いに応じていたようだった。
――相変わらず、やさしい。
やさしいから、女子の誘いを断れずに困っているのもすぐにわかった。
なんなんだ、あいつらは。棗はこれからおばあちゃんの買い物をするという大事な使命があるのだ。ここは棗の尊さを守るために、俺がひと肌脱ぐしかない。そう思った。
壮真は自身の手を天井にかざし、まじまじと見つめる。
どさくさに紛れていたとはいえ、手まで握ってしまった……
本当は高校入学時からこちらに引っ越してくるつもりだったのだが、両親の説得に手間取ってしまった。硝子工芸作家の姉が、この町の古民家再生プロジェクトに参加するのに便乗して、なんとかこぎ着けたのだ。
子供の頃の事情を知っている姉は「その子んちだってもしかしたら引っ越してるかもしんないよ? 会えるとは限らないのに、正気?」と辛辣だった。
もっともなその言い分を「それでもいい」と振り切って、こうしてやってきた今、後悔はみじんもない。
棗の姿を見つけたとき、すぐにあの子だ、とわかった。
ずっと俺の心の支えだった、あの子。
だけど肝心の心の支えのほうでは、自分のことを覚えていなかった。
『初めまして』
そんなふうに言うから、思わずきつく睨みつけてしまった。本当は会えて言葉を交わせるだけでも嬉しくてたまらなかったのに。
「それにしても……自分の考えを言えないって、なんでだ?」
容姿こそ予想通りに育っていたものの、そこは予想外だった。
記憶の中の棗は、もっと溌剌としていた。内側から輝いてるものが見えるくらいに。
そんな彼が自分を卑下するようなことを言うから、思わずかっとなって詰め寄ってしまったのは軽率だったと思う。
――怯えさせてしまっただろうか?
「六年経ってるからな……その間になにかあったのか――」
まあいい。とにかく同じ学校の、同じクラスになったのだ。ゆっくりさぐりを入れていけばいい。
――明日から、なにもかも挽回だ。
「待ってろ、俺の初恋」
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