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――宿題の合間にちょっと外に出ようなんて思ったのが間違いだったな。
盆地である田舎町の夏の暑さは、東京育ちの壮真には堪える。
とはいえ、出て来たばかりですぐに戻るのも、なにかに負けたような気がして癪に障る。少しでも日陰になるところ、日陰になるところと歩いているうちに、壮真は木々の生い茂った神社にたどりついた。
日陰涼しい。どこかに水も――
すがるような気持ちで境内に足を踏み入れると、屋根付きの手水舎が目に入った。
「やった! ……あ?」
勢い込んで駆け寄った手水舎の竜の水口からは、水が出ていなかった。当然、手水鉢の中はからからに乾いている。
壮真は、力なくそこにしゃがみ込んだ。膝を抱えると、長い髪が首から肩全体に張り付いた。暑い。湿度が東京とは全然違う。最悪だ。こんなところ。
――でも、戻ったって……
両親が楽しい不倫旅行から戻ったら、また連れて歩かれる。綺麗で味のしない料理をちょっとだけ食べて、写真を撮られるのだ。
どっちも最悪だ。だけど、子供の自分になにができる?
「――大丈夫?」
突然声をかけられて、面を上げると、少しくせ毛の、大きな瞳の少年がこちらを覗き込んでいた。
「汗凄いね。半分食べる?」
「――」
一瞬の躊躇もなくソーダ味のアイスを掲げられて、咄嗟に声が出せなかった。食べたいかと問われたら、もちろん、一も二もなく食べたい。が。
「――なにもない、から」
「?」
「代わりに出せるものが、なにも」
父と母は、ことあるごとに壮真に言った。
『お父さんとお母さんが一生懸命稼いだお金を払ってるから、おまえもお店で大事にしてもらえるんだぞ』
だから、身一つの今、壮真が誰かから何かを受け取る権利はない。
しかし、壮真の言葉を聞いた少年は、なにを言われたのかわからないとでも言いたげにきょとんとした顔をして、それから、くすっと笑みをこぼした。
「なんにもいらない。おれが半分こしたいからするんだよ」
それから「今プールの帰りで」「いつもは友だちと一緒なんだけど、旅行とか野球とかで」と聞いてもいないことをぺらぺらと喋りながら、アイスの袋を破った。
少し柔らかくなっていたのだろう。二本のバーを持って半分に割ると、片方が大きくなってしまった。
少年は大きなほうを壮真に差し出した。躊躇いもせずに。
「――」
「え、あっ、ごめん、なんか嫌だった?」
少年が急に慌てふためく。
壮真は自分の両目から涙がこぼれていることに初めて気がついた。
言葉がうまく見つけられず、ただふるふるとかぶりを振った。長く鬱陶しい髪も、一緒にふるふると揺れる。
「……ただの汗だから」
どう考えても下手くそ過ぎる言い訳。
少年はそれにはなにも触れずに、そっと告げる。
「嫌なことされたら、嫌って言っていいんだよ」
そんな当たり前のことを、両親は俺に言ってくれなかった。
それから数日間、その子と遊んだ。幼い外見と裏腹に、聡いその子は壮真の素性を問いただしたりしなかった。
せめてお互い名乗っておけば良かったと思ったのは、母が不倫相手とバカンス先で喧嘩別れして、壮真を突然迎えにきてからだ。
別れを告げることもできず、東京に戻った。
でも、壮真はもう夏前の壮真ではなかった。
ヘアドネーションだけ終えると、壮真は両親にはっきり告げたのだ。もう、写真のために連れ回されるのは嫌だ、と。
幸い、時を同じくして世の中はどんどん子供の人権に敏感になっていき、両親は壮真の写真を勝手にSNSに載せることを諦めてくれた。もちろん、最後に『子供の人権に配慮できなかったかつての自分』を反省する文章を投稿し、山ほどの星を稼いでから。
棗に出会わなければ、嫌だと言い出せなかったかもしれない。
なにも差し出せなくても、助けてくれる人はいる。そう棗が教えてくれたのだ。
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