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家の近所のコンビニで、酒だのお菓子だのを買い込んだ。俺が財布を開くよりも先に、麻未さんがスマートフォンをレジにタッチして会計してしまった。今日は現在のところ、鍋の中身をよそうくらいしか麻未さんに勝てていない。ダメ男……と俺を叱責する、もうひとりの自分の声が聞こえる。
部屋に入って、床に転がったネット通販のダンボールを蹴り飛ばしながら進む。この狭いボロアパートに住んで三年が過ぎた。この歳になってしまっては、家に他人を招く機会など、ほぼなくなっていた。だからこそ油断していたわけだが、麻未さんは相変わらず頬が赤いまま、自分の部屋に帰ってきたかのようにすたすたと入ってきて、ソファに腰を下ろす。
「きみが脅かすから、もっと壮絶な部屋を想像してたよ」
「恐縮です」
「悪かったね、いきなり押し入ってきて」
「いいですよ。どうせ、悪かったなんてこれっぽっちも思ってないでしょ」
「思ってるよ? 小指の先くらいは」
グラスをふたつ持ってきて、コンビニで買った氷をいくつか放り込んだ。安物の果実酒を注ぎ、それをミネラルウォーターで割る。キン、と安いグラスをぶつけた。
「んじゃ、さっそく観ますか、そしたら」
「うん」
麻未さんにそんなつもりがさらさらないことは、店の前の「そういえば」の時点ですぐに解った。けれど知らない振りをしたまま、俺はプレーヤーに入れっ放しのDVDを、最初のチャプターから再生する。例によって、俺と麻未さんが共通で好きなアーティストのものだ。映像が映し出されると同時に、俺は部屋の照明を常夜灯に切り替えた。
気持ちを震わせる歌声に呼応するように歓声をあげたいところだが、賃貸住宅ではそういうわけにもいかなかった。やっぱこの曲で始まるんだね、まあ恒例行事のようなもんですし、あたしリミックスより原曲のほうが好きだな、気が合いますね俺も同感です。二人で酒の入ったグラスを傾けつつ、時折、一言や二言ほど感想を述べ合いながら、明滅するテレビの画面を眺め続けた。
やがて、セットリストに数曲あるバラードへと切り替わると、麻未さんが静かに俺のほうに身を寄せてくるのがわかった。麻未さんのつけている香水のにおいが、鼻をくすぐってくる。逃げ出すなら今だとわかっていながら、俺は身動きひとつとれなかった。いつも子どもを抱き上げているであろう麻未さんの腕が、俺の身体を絡めとるように抱きしめてくる。あれだけいろんな話を聞いておいて何も気の利いたことが言えない自分にできることは、無言を以て応えることだけのように思えた。
彼女は泣いていた。なんで泣いているか……などと訊くのはあまりにも野暮だ。なぜだか、俺はこういうシチュエーションには慣れている。そこに俺という人間の気持ちなど要らなくて、必要なのは相手の欠けた部分を埋められるものだけ。
今はきっとそれでいいのだ。一緒に生きていこう、なんて誰かと誓いを交わす権利も覚悟も、今の俺にはない。
俺の身体へ馬乗りになった、麻未さんがこぼした涙の雫が落ちてくる。それが俺の頬のうえで弾けた頃には、既に温もりが残っていなかった。
愛によって生み落とされたはずの俺たちは、いま手元にそれを持ち合わせていない。そう思うとこっちまで涙してしまいそうな気がして、俺は胸板に這わされていた麻未さんの手をとり、強く握った。
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