黙示

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 俺の中での麻未さんは、明らかにザルだった。いつまで飲んでいても顔色ひとつ変えずケロリとしていて、あたりには張り合おうとした男どもが死屍累々と横たわっているイメージがあったのだが、やはり数度の大きなライフイベントを経験していると、体質も変わるということなのだろうか。いま、俺の前にいる麻未さんは頬をほんのりと朱に染めて、先ほどまでとは違い、白い歯を見せて笑っていた。 「そういえば、きみ、さっきなにか言ってたよね」  油断していたところにボールが飛んできた。俺は努めて冷静に言う。 「ああ、まあ。うちは飲んできていいことになってる、って言葉が気になっただけです」 「ああ、それか」  ぐい、とグラスの中身をカラにした麻未さんを見て、俺はテーブルの呼び出しベルを鳴らす。店員にビールをオーダーすると「あたしも」と畳みかけられる。ふたつで、と告げると店員は静かに引き戸を閉めていった。  それを合図にして、麻未さんは静かに唇を開いた。 「めんどいから端的に言うと。……浮気してんだよね、ウチの旦那」 「は?」  しこたま摂取したはずのアルコールが、流れ星のように尾を引きながら飛んでいくような気持ちだった。そもそも俺からしてみれば浮気なんて行為自体が言語道断の大罪だが、それを浮気されている側が知っているというのも、また衝撃的な状況に思える。  麻未さんはそんな俺の浅い考えを見抜いているのか、言葉を続けた。 「だってさ、考えてみなよ。それまで完全放置だった携帯にロックかける時点で、わかりやすいじゃん。他にもそんなふうに簡単にボロ出したからさ、全部洗いざらい吐かせたんだ。それで、もう会わない……って旦那にも相手の女にも一筆書かせたの」 「それでも、まだ旦那は浮気相手と会ってんですか」 「まあ、しばらくは本当に会ってなかったみたいなんだよね。そしたら、旦那が病んじゃってさ」  病んだという。おそらくは、心を、という意味だろう。仮にもその男の配偶者の前だと思い直し、なんでお前が、という言葉はぎりぎり呑み込んだ。 「メンタル、ってことですよね」 「そう、そう。仕事行けなくなるくらいになっちゃってさ。そんなんなるならもう好きにしたら? って。そのかわり会うなら『会ってくる』って予めちゃんと申告するように言ってある」 「わざわざ『違う女に会ってくる』と言えってことですか」 「うん。あたしからしたら、ちゃんと家に帰ってきて、お金を入れてくれるんなら、もうどうでもいいんだよね。その代わりに、あたしだって遊びに行ったり飲みに行ったりする、って言ってる。だから、旦那が家にいて子どもの面倒を見ていられる日は、あたしは飲みに出ていいってことになってるってわけよ」  ジョッキがふたつ届けられた。俺が片方を手渡すと、麻未さんは喉を鳴らしながらビールを流し込んでいく。俺は二の句を継げないどころか、少しずつ泡が減っていくそれに、未だに口をつけることすらできないでいた。
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