黙示

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 どうして人間という生き物は、こんなにもボタンを掛け違ってしまうのか。きっと麻未さんもその旦那も、出会って付き合い始めた頃は、お互いのことを好きで仕方なかったはずなのに。だからこそこれまで一緒に過ごしてきたんだろうし、結婚や出産なんていう大きなポイントを通過してきたんだとも思う。  にもかかわらず、今の二人の心はこんなにも大きく擦れ違っている。もしもこの二人の間に子どもがいなかったなら、とっくに別れていたって不思議じゃない。もっとも、今の俺にはその気持ちをすべて分かりきることなど、できそうもない。俺には子どもどころか、配偶者、もっと言えば恋人さえいない。  麻未さんは、目の前の俺に言っているのか、自分に言い聞かせているのかが曖昧な声色で呟いた。 「あたしはね、夫婦にはいろんなかたちがあっていいと思うんだ。当人同士が納得していて、それでいて子どもたちが苦労したり辛くならなくて済むのなら、今の暮らしも悪くないと思ってる。……ま、合ってるとか間違ってるとかは、知らんけどね」  その呟きはまるで、麻未さんの声なき悲鳴のように思えた。 *  会計を済ませて店を出た。一階まで下がってエレベーターを降りると、外は強い雨が降り始めていた。星ひとつない真っ黒な夜空は時折、カメラのフラッシュが焚かれたように強く光る。電源の入ったマイクが床に落ちたみたいなくぐもった轟音が鳴るたび、たらふく酒と食い物を押し込んだ腹を揺らしてきた。  最近の天気予報は、悪い方にばかり当たってしまう。もっとも、三日先のこともまともに考えちゃいない自分が、気まぐれな空模様を真面目に考えようとしている気象予報士に文句を言う資格などなかった。  俺は傘を持ってきていたが、麻未さんは手ぶらだった。なんで傘持ってこなかったんですか、あたし傘持って歩くの嫌いなんだよね、濡れちゃうじゃないすか、学生の頃はそうだったけど今ならタクシー乗れるしね。なかなかビルの外へ出る踏ん切りがつかない俺たちは、中身のない会話で時間を稼いでいたが、後方から違う店の客がぞろぞろ出てきた気配を感じて、観念した俺は傘を束ねているボタンを外した。  同時に、麻未さんが言う。 「そういえばきみ、ツイッターで新しいDVD買ったって言ってたよね」 「ああ、去年のライブのですか。夢に出てきそうな勢いで観てますよ」 「あたしも観たいなあ。きみんちって、この近くだっけ」 「歩いて一〇分くらいですけど、人を呼ぶ準備なんかしてないし、汚いですよ」 「いいよ、それでも。気にしないし」  星のない闇に向けて、安物のジャンプ傘を広げる。一歩ビルの外に出た途端、空の涙が次々とビニールを打った。ひょい、と麻未さんが俺の隣に滑り込む。昔にも、こんなことがあった気がする。何も知らなかったあの頃は、ひとつの傘の中で隣に女性がいるということに、妙に胸がむずがゆくなったのを思い出す。今となっては凪いだ海のように、静かに寄せて返す音を立てるだけだった。  波紋で光を歪める水たまりを避けながら、俺たちはゆっくりと歩き出した。
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