Dinner

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『ごめん。今日ちょっと遅れるかも』  午後の三時になって届いたメッセージに、大丈夫だよ、と返してから三時間。さなぎから音沙汰なく、更に一時間過ぎた頃、 『ごめん、今から行く』  というメッセージが届いた。 『無理しなくてもいいよ?』  拗ねた感じにならないように、既存のスタンプを併用して、なるべく言葉を軽くする。OK! とウインクしているクマの絵柄をタップすれば、ポコン、と会話のなかに浮き上がった。その瞬間、自分がこういうのを使うのは似合わないと、改めて実感させられ、少しだけ恥ずかしくなる。 『迷惑じゃなければ行きたい。俺、金目鯛の煮つけすごい好きだから!』  同じように、目をキラキラさせたうさぎのキャラクターが、ポコンとさなぎのメッセージと一緒に浮き上がってくる。  思わずその子どもみたいな言葉と、うさぎの眼差しに口元が緩む。 『あと四十分くらいで行けると思う』 『じゃあ、温めながら待ってる』  なんとも甘ったるいやり取りだな、とメッセージを読み返しながら、一人客観的にそんな事を思う。そこには恥ずかしさがあり、居たたまれなさがあり、心地良さがあり、温もりがあった。  男一人ならば、絶対に用意なんかしないランチョンマットや、その上に伏せられた、茶碗と箸置きにきちんと並べた箸。お茶碗は温めて置いた方が良いと聞いたので、さなぎが来る日だけは、一度お湯を注いで器を温めるようにしている。  せっかく特別な食事をするならば、普段はしない特別な事を、できる限りしてみたかった。  俺はゆっくりと冷えていく茶碗を再度、のんびりした手つきで温め直し、出来上がった食事の味見を再度して、調整をする。そんな事を細々と目を配らせていれば、彼の言う四十分なんてあっという間だった。  インターホンの音に視線をあげて、さなぎだと直感で感じれば、相手を確認せずに扉を開く。少し驚いたように半歩下がって、そこにはさなぎが立っていた。 「ごめん、待たせたよな。でも、相手を確認してから出た方がいいよ」  俺は指摘されてから「あ」と気付いて、自分の幼稚な行動に視線を落とした。 「まぁ、そういうのも可愛いけどね」  そう言ってさなぎは「おじゃましまーす」と、勝手知ったる部屋の中へと俺をすり抜ける。成人男性に向かって可愛いなんて、誉め言葉でも何でもないはずなのに、妙に胸の奥がざわついて、俺はその事を叱咤できなかった。  ただたださなぎの放った甘い言葉として、心の壁にとろりと張り付いているような感覚。俺はそこから意識を離そうと、 「金目鯛、すごく美味しくできたと思う!」  と声を態と子どもみたいに弾ませてみた。 「お、本当だ。すごい良い匂い。今日は昼から何も食べてないんだよ。めちゃくちゃ腹減った」  そう言いながら覗き込んでいた鍋の蓋を閉めると、「和食には日本酒だろ?」と小さな箱に入ったものを、さなぎがテーブルに置いた。俺はそれに「ありがと」と告げて、 「ご飯どのくらいにする?」  と、炊飯器を開く。中で蒸れた水蒸気が、米の甘い香りとともに、白く霧散する。 「山盛り。漫画みたいな」  俺はそれを想像して笑った。  彼の望む通りにご飯をよそい、温め直した煮つけや肉じゃがを器に盛りつける。色味に華やかさはあまりないけれど、静かな醤油の甘い香りと、煮つけで使った生姜のぴりっとした香りが漂う。胡麻和えの小松菜のお浸しを冷蔵庫からだせば、食卓は二人分には十分な量が揃った。 「うまそ。いただきます!」  手を合わせれば、すぐに箸を手に取り、どれにしようかなあと迷っている彼を眺める。弾んだ心地で箸の先を金目鯛の煮つけに定めると、彼はその身をほろりと解して、口に運んだ。 「あー、うまい。ほくほくしてる。生姜も効いてて、これ飯が進む」  そう言いながら白米をばくばくと、口に押し込む。まるで食べ盛りの中学生のようだ。俺もならって煮つけを一口、くちに運ぶ。濃く甘い醤油の味に、後からふんわりと生姜が香って、鼻から抜けていく。大成功だと胸がほこほこと温まった。 「今日はどっちの仕事だったの?」 「両方。午前中は作曲の仕事で、午後は調律。それが行った先のピアノが、すん……っごいガッタガタで、直すのに苦労したよ。部品がもう駄目なのもあったりなんだりで、だいぶ時間取られた」  さなぎはそう言いながらも、充足した表情で、肉じゃがの程よく黄金色に染まったジャガイモを二つに割った。ほうっと湯気が微かに立ち、さなぎはそれを頬張った。 「うっま、しみしみ」  嬉しそうに零しては目尻を下げる。 「しのぶの飯があるから、今日は頑張るぞーって、すげぇ思ったんだよ、俺」 「お疲れ様です。そう思ってくれてるなら何よりだよ」 「俺さ、多分ずっとこういうの飢えてたのかもしれない。母さんもあんま料理しない人だったから、思い出の味とか、懐かしい味とかあまりピンとこなくて……」  そう言えば、前もそんな事を言っていたなと思い出し、俺はさなぎの箸を見つめた。いつか、あれが食べたいなと、何かをふと思い出した時、その味が俺が作ったものだったらいいのにと思う。それは当たり前のように、自然な形で、自分のなかにぽつりと落ちてきた。 「たぶん、煮つけ食いたいなぁとか、ペペロンチーノ、ビーフシチューを思い出す時、これからはしのぶの味なんだろうな」  そう言ってさなぎは笑った。俺は照れくさくて「光栄です」と、わざとかしこまった言い方をして、場の空気を軽くしようと努めた。  その後、さなぎの一日を聞きながら、ご飯を食べ、まだ残る煮つけと筑前煮をつまみに、さなぎが持ってきた日本酒を頂くことにした。席をダイニングからソファに移し、ゆったりと深く身体を沈める。  ざらりとしたおうとつのある、曇り硝子の涼し気なお猪口を二つ用意して、お互いに「まあまあ」なんて言いながら、笑って注ぎ合い、乾杯をした。 華やかな香りに誘われるように、鼻先を寄せて香りを楽しむ。 「甘そうだ」 「うん、しのぶが好きそうだなって思って」  そう聞けば、胸がまたことりと傾く。唇をガラスに押し当て一口喉に通すと、すっきりとした飲み口の奥に、深い甘みと花のような香りを感じた。喉の襞に熱を持たせながら、するすると消えていく透明の液体は、一口流し込んだのを皮切りに、止めどなく胃に流れていく。 「おいしい」 「今日は飲むね、しのぶ」 「だってすごい飲みやすいし。……どこの? 常備しようかな」 「そんなに気に入ってくれた? また今度買ってくるよ」  さなぎはそう笑って、手酌で自分のお猪口にも透明のそれを注ぎ足し、もうすっかり冷えてしまっている、筑前煮の人参を食べた。 「温め直す?」 「んーん、このままでもうまいよ」  そう言いながらさなぎが俺のスマホを持ち上げる。音楽かけて良い? と操作しながら尋ねられたので、好きなのをどうぞ、と伝えると、彼はスザンヌ・ヴェガのローズマリーを静かに流した。ブルートゥースで繋がれた小さなステレオから、極力絞られた音量で、静かなギターの音が流れ出し、それに重なるようにして、優しい素朴な歌声が浮かび上がる。  いつもよりもぼんやりとした霧のような、柔らかな音色が温かみを持って、鼓膜から身体の中へと流れてく気がした。じんわりと体力を奪いさるような気の抜ける心地だ。 「少し酔ってるかも」 「半分くらい飲んでるからね、しのぶ」  そう言って席を立ったさなぎが、キッチンへと消えていく。暫くすると、氷の入った冷水を差し出された。 「中和しないと」  そう言いながら俺のそばにしゃがみ込む彼が、優しい笑みを浮かべながら、俺を上目遣いで覗いてくる。頭の奥が滲むように芯を失くして、くにゃりと横たわっているのを感じていた。 「ほら、もう頬も首も赤い……」  そう言って俺の手に冷たいグラスを握らせる。手のひらだけが現実世界みたいに、でもそれ以外が宙に浮かんで漂っている気分だ。伸びてきたさなぎの大きな手が、俺の頬を包むように撫でて、ゆっくりと首の側面を撫で下がって行く。  ただそれだけの仕草に、特別な意味を感じてしまう俺は、やはりひどく酔っているのだろうか。  短い曲が終わりを告げて、夜の底みたいな群青色の深い静けさが漂う。俺とさなぎはゆったりと瞬きするその眼差しを絡ませ合った。心臓の裏側から、とくとくと、透明度の高い純粋な何かが溢れている。なんだろう、これは。  さなぎが立ち上がるように手をついたソファの縁が、深く沈む。 「しのぶ、嫌なら言ってね」  彫りの深いさなぎの鼻や唇や目尻の端に、陰影が深く降りる。近づいて交わる息は、同じ日本酒の甘い香りだった。  どちらからともなく、熱い身体の割に冷えた唇を重ねた。  押し付けるだけで吸い付く薄い皮膚を一度離し、角度を変えて唇を甘く食むように重ね合わせる。何度か薄い口づけを交わしている内に、ずっと隠れていた欲が顔を見せ始めた。  何をしているんだろう。  そんな漠然とした疑問に答え等は求めていない。俺はさなぎの背に手を回し抱き寄せ、さなぎは俺の身体を抱きしめながら、少しずつ身体をずらして、ソファへと自然な形で俺の身体を沈めた。  気づけば、熱い舌に唾液を絡ませながら、俺はさなぎの厚い舌を求めていた。それは彼も同じで、俺たちは後戻りする事の出来ない口づけを交わし、お互いを求め続ける。滑る舌先と、ぬるりと口内を蹂躙する身勝手なさなぎの舌に翻弄され、自身の理性と本能の境界線が曖昧になっていく。  久し振りに性を意識させられた気がした。 「しのぶ、男いける?」 「分からない」  今まで性の経験がないわけではない。 それなりに積んできたつもりではあったが、同性に対して、こんな風に身体が熱を持つのは初めてだった。  初めてなのに――。 「さなぎは……?」 「想像に任せる」 「ずるいよ」  訴えてもさなぎは薄く笑うだけで、答えてはくれず、ただそれ以上の訴えを食べるように、俺の唇を塞いだ。シャツの裾からするりと掌を忍ばせて、肌に触れてくる。熱い指先と少し冷えた手のひらが、熟れた身体の隅々を確かめるように這いまわった。腹、へそ、腰、脇、そして最後に胸に行きつくと、普段意識した事もないような場所を摘まみ上げる。 「さなぎ……っ」  酒のせいか、雰囲気に流されているせいか、胸の突起を摘まみ、弾かれると、普段は何ともないものが特別な意味と感覚を、今だけ持っている事に気付く。ぴり、と甘い電気みたいなものが、脇腹の奥に響いた。  シャツの前のボタンを外され、呼吸が荒く短くなり始めたさなぎが、晒された平らで柔らかくもない胸に顔を埋める。鎖骨にざらりと猫みたいな舌が這い、すぐに刺激されたばかりのそこに吸い付いた。舌先で潰すようにこねくり回されると、ぞわぞわと肌が粟立つ。 「嫌なら殴ってね」  二回目の警告だ。  俺は見下ろしてくるさなぎの、少し溶けた眼差しを受け止める。殴ってね、と物騒な事を言う割に、心細いと言いたげな眼差しが、胸の底まで沁み込んで来て、庇護欲を擽った。  二人で暫く見つめ合ってから、再び唇を重ね合わせる。 それはこれから起こる事、全てに対して同意するような、静かな口づけだった。  さなぎはゆっくりと俺から、服を奪い去ると、自分も着ていたシャツを脱いだ。  温かいリビングの明かりの下で見る、彼の胸や腹や脇は、細い割に引き締まり、固そうな皮膚に覆われていた。それなのに、触れれば瑞々しく、指に吸い付いてくる湿り気を含んでいる。 「無理な事はしないから、安心して」  無理な事って?  そう聞こうとして、でも今は何も聞かずに、彼に身を委ねているのが正しい気がした。いや、違う。正しいのではない。俺がそう自ら望んでいる。さなぎに全てをあけ渡してみたいと。  男だとかそういうものを越えて、彼に自分の魂ごと、預けてみたい。大袈裟な言い方かもしれないけれど、そのくらいの気持ちが、今この胸にとくとくと息づいていた。無防備、そういう言葉を使うなら、きっと今かもしれない。女になるでもなく、子どもに還るのでもなく、あけ渡すと委ねながら、彼の全てに従いたいような……。言葉では何とも言い表す事の出来ない気持ちだ。  彼の舌が、俺の舌から首筋や鎖骨、胸に至るまでを、味わい尽くすような仕草で這う。彼の手がゆっくりと最後のズボンや下着に親指をかけて、引きずり降ろしてくると、心臓が緊張して少し固くなった。 「触るよ」  そう言って空気に触れた性器を、さなぎは柔らかく握り込んだ。思わず深く息を吸って、慎重に息を吐き出す。いつの間にか閉じていた瞼を開くと、こちらを覗き込んでいるさなぎと眼が合った。視線を逸らせば、しのぶ、と呼ぶように、彼の手が半ば芯を持ち始めているそれを、扱き始めた。はっきりとした快楽が、身体を支える軸を痺れさせる。 「あ、さなぎ……っ」 「俺のもできる?」  そう言いわれて、視線を下ろせば、苦しそうに布を押し上げているふくらみが目につく。俺は手を伸ばしてそこに触れた。そこは布越しにしっかりと芯を持ち、硬く主張するそこは熱を持っていた。ジッパーを下ろして、手を忍び込ませると、触れた熱にさなぎが湿った吐息が耳たぶに触れる。 「あー……ちょっとヤバいかも」  そう言いながら、さなぎの腰がうねるように柔らかく滑かに動いた。筒状にした手のなかで自らを慰めるような形を見せられ、思わず顔が熱くなる。俺はさっと彼から顔を背けると、強弱を付けながら、手の中の硬くそそり立つそれを、彼の腰のリズムに合わせて擦り上げた。 「しのぶ、こっち見ててよ」  短い息の隙間に、さなぎの濡れた声が挟まれる。もう既にお互いの吐息だけで、体温が三度は上昇しているのに、これ以上はのぼせてしまいそうだ。抗うように目を閉じると「しのぶ」という囁きと同時に、先端を指の腹で強く擦られた。その瞬間、予想のない快楽に身体がびくりと跳ねる。人に触れられるという事は、予告も宣言ないまま、車の助手席からハンドルを握られているみたいだ。危うくて、無責任で、自分の中の芯にある欲望をむき出しにされる。  一人では無意識に自制してしまう事すら、何故かいとも簡単に、解かれてしまう。  俺はさなぎを見つめた。絡み合った視線の先で、微かに彼が力を抜いて微笑んだように見えた。すると、さなぎは俺に覆い被さり、俺と自身の性器をひとまとめに握り込んだ。何をするのだろうと見つめれば、 「動くから、しのぶも支えてて」  言われるままに二本の張り詰めたそれをぴったりと合わさるように支える。彼の薄い皮膚の表面が脈打ち、ひどく熱い。心臓が大きな音を立てながら、壊れてしまうぎりぎりのラインで生きている。ぎしっとソファーが男二人分の体重に軋んだ。 「ん、ぁ……」  ゆっくりと律動を始めるさなぎに、火照りはち切れる寸前の性器の側面が擦れる。気持ちいい、という言葉では足りない程、俺の知らない何かで胸が満ち満ちていた。  覆い被さってくる男の下で、違和感はそれなりにあるはずなのに、どうしてこんなにも心地が良いのか、自分でも分からない。俺は空いている左手を彼の頬に這わせて引き寄せる。望みを口にしなくとも、当たり前のような仕草で唇が重なると、息苦しい程の幸福に満たされてしまう。  きしきしと、彼が動くたびにソファが揺れる。肌けた腹の上に、二人分のとろりとした先走りが垂れていくる。唇の間の呼吸が空気を濡らし、適温であったはずの部屋の温度を三度上げる。 「しのぶ、……っ」  遠慮がちだった腰つきが、理性を少しずつ失っていく。さなぎは俺のこめかみに唇を押し当てながら、俺は彼の首筋に顔を埋めながら、 「さなぎ……っ、あ、おれ……っ」  ただただ、お互いを求めていた。腹の下が熱く煮えて、脚のつま先まで痺れていく。無意識の内に足を広げ、腰を突き出すように、彼に性器を押し当てている自分に気付いてしまっても、それをどうしてもやめる事ができなかった。  酒が今更回り始めているのかもしれない。そんな言い訳すらもできない程、快楽が俺の身体を支配していた。 「もう、……っ」  俺は両手を離すと、さなぎをきつく抱き締めながら果てた。ほぼ同時に、さなぎも全てを手放すと、俺の身体を強く抱き締めてくれる。何かに怯えているみたいに、二人できつく抱き合いながら身体をびくびくと揺らす姿は、子どものようだろうな、なんてどうでも良いことが頭を過った。 俺の身体の上で弛緩するさなぎの背に触れると、 「あ、ごめん。重いよな」  そう言いながら、彼が起き上がろうとするので、俺はそれを引き止めた。俺を見下ろす形で止まったさなぎは不思議そうに俺を見つめている。汗が微かに滲んだ額や顎に指を這わせ、俺は「もう少しこのままで」と呟いた。一瞬だけ瞳を大きくして瞬いたさなぎは、すぐにその表情を解いて、再び覆い被さってくる。  今、二つの身体を引き離すには、あまりにも残酷な事のように思えてしまったのだ。  俺たちは脚を絡ませ、頬同士を擦り合わせながら、とても小さく、羽音のように密やかに笑った。それはまるであの、不安な夜に灯った明かりのようだった。
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