Dinner

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 銀座線を使い表参道まで辿り着くと、俺は青山通りから渋谷駅へと歩きながら、途中一本隠れるように脇道に入った。大きな通りにある車の往来も、煌びやかなネオンや着飾った人達から隠れるように。  その店は随分とひっそりとしたものだった。小さな戸口に掛かる、緑色の廂には「BISTRO FAVR」と小さく書かれていた。戸口の隣にある擦り硝子越しに漏れる、温かな光に誘われるように、俺は木製の扉を開いた。カウンター越しに白い作業服を着た、大柄の男が顔を上げる。一瞬無愛想とも取れる表情が解れ、こんばんは、と声を掛けられたので、会釈をしながら「こんばんは」と返す。  するとすぐに、奥へと広い店内の奥から、片手を振るさなぎを見つけた。 「お待ち合わせですね。どうぞ、奥へ」  促されるままに、こつこつと良い音の響く板張りの床を歩くと、二人用の丸いテーブル席に、向かい合うようにして腰を下ろした。 「なんだか、すごく久し振りな気がする」  さなぎはほっと息を吐くように言った。手元には既に赤いワインが丸く揺れ、俺はすぐそばにいた従業員に同じものを、と頼む。 「そうだね、毎週会ってたから」  どうかこの言葉が、嫌味のように聞こえませんように。そう願いながら、努めて軽く答えてから、 「仕事はどう?」  と話を逸らした。彼はワインを緩く揺らしながら、うーん、と微かに唸り、 「順調過ぎてちょっと怖いけど、すごく楽しいよ」  そう少しだけ照れたように笑う彼に、思わず無意識に笑みを零す。 「本当はしのぶの飯食いたかったんだけど、長い時間いれそうにないから」  前置きのように告げられると、思わず表情が硬く強張ってしまうのが、自分でも分かった。ひどく残念そうな顔をしていないか、胸の内側を不安が過る。 「そっか、忙しそうで何よりだよ」  そう告げながら運ばれてきたワインを受け取ると、俺たちは軽くグラスを合わせた。  さなぎが選んでくれた料理はどれも美味しかった。サーモンのマリネも鱈のフリットも、柔らかなラムの煮込みも。全てが白い皿に丁寧に横たえられ、見た目もどうやって手をつけようかと迷うほど、綺麗だったし、勿体なかった。  ――料理が勿体なかったのか、過ぎる時間を惜しんでいるのか、もう俺にも分からなくなっていた。 「しのぶは最近どう?」  ふいに聞かれたので、ここ数日の代わり映えのない生活を振り返る。仕事をして、患者の子供たちと他愛のない話をしたこと。俺の仕事は、変わり映えがない方が平和で良い。皆が元気に過ごせている証拠だ。  さなぎはそんな俺の話を、興味深いという眼差しで、じっと耳を傾けて聞いてくれる。人を真っ直ぐ見つめる眼差しに、微かに緊張していると、ふいに彼の手元にあるスマホが震えた。  俺は出なよ、と促すように、視線を滑らせると、さなぎは「ごめん」と呟き、スマホを操作した。それからそれを耳に押し当てて、身体を背ける。何かを隠すようなその仕草に、はっきりとした疎外感を感じてしまう。さなぎの仕事の少しでも理解していたら、まだこんな気持ちを味わう事はなかったのかもしれない。しかしそれはないものねだりというやつだ。  いま確かに、俺は少しだけ拗ねている。  大の大人の男が。  自身に言い聞かせるように、心の内側でそう呟くと、俺はワインを一口、喉に流した。軽やかな渋みに、舌が微かに絞られるような感覚がする。 「ごめん、しのぶ」  通話を終えたさなぎが眉を下げ、俺はいいや、と明るく首を振った。 「もう出た方が良い?」 「いや、まだもう少し……」  そう言ったさなぎの言葉の続きを、俺は微かに期待していた。 何だろう、この気持ちは。 俺は自分の態度に、自分で苛立っていた。自分の言葉が、彼を気遣っているように見せかけて、彼を責めているように感じる。さなぎの望む世界で、さなぎが生きる事を、ちゃんと喜べない自分と向き合っていた。 本当は時間がなくても、家に来て料理を食べて欲しかったし、短い時間でも構わないから、二人で過ごしたかった。そういう風に期待していた。 そんな自分が、情けなく、恥ずかしい。 人の成功や、幸せを願えない自分が、はっきりと胸の内に存在している事に、申し訳なさが募っていく。 それと同時に、俺はこの気持ちを認めなくてはならないのだと、突きつけられていた。 「きっと今は頑張り時なんだから、さなぎは音楽に集中しなきゃ」 「うん、わかってる。分かってるけどさ」  そう頷くさなぎは、自分に言い聞かせるようだった。俺もまた、自分の言葉に納得を強いていた。  俺たちは向かい合いながら、温かな料理を挟んで、お互いではない自身とばかり会話をしているようだった。  人を好きになる事は、こんなにも切ないものだっただろうか。俺はそんな事をぼんやりと考えながら、彼が初めて聞かせてくれた音楽を思い出していた。
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