Dinner

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「その弁当、女じゃなくてお前が作ってるの、未だに信じられねえわ」  同僚の新島が、昼飯用の菓子パンに噛り付きながら、椅子を軋ませ顔を近づけてきた。  俺は半分食べ終えたそぼろごはんと、照り焼きチキン、煮物の入った弁当箱を見下ろして、そうか? と首を傾げる。  料理は母親が亡くなってから、仕事をしている父親の代わりにすることが多かった。そのお陰もあり、今も料理は苦手ではないし、忙しい日常の最中の一つの気分転換となっているので、俺は新島の言葉があまり理解できず、 「簡単だけど?」  と答える。しかし彼は「そんなわけあるか」という風情で菓子パンを頬張り食べ尽くすと、俺の弁当の中から煮物の里芋を一つ摘まんで自分の口に運んだ。 「手で食うなよ」 「ちゃんと洗ったって」  そういう問題ではないのだが、どうせ言っても聞きはしないだろうと諦めて、俺はそぼろごはんを頬張った。甘辛く味付けしたそぼろと、黄色い甘めの卵が白米と良く絡み、口の中をほっこりと温かく包み込む。 「あ、そう言えばさ、ロビー近くにカフェできたの知ってるか?」  そう言いながら、新島は残り一つになった照り焼きチキンを頬張る。俺はもう何か言うのを諦めた。  照り焼きチキンを見送ってから、彼の言葉にそういえばと、お知らせの小さな張り紙が、廊下に何枚か貼られているのを目にした事を思い出す。  特に興味がなくて、忘れていたが、あれはカフェの新規オープンの張り紙だったのか。 「美味いの?」  カフェと言うならば珈琲か、偶にはコンビニのワンコインじゃなく、淹れたてをゆっくり飲むのもいいな、なんて思いながらそう返すと、新島は「違う違う」と首を振る。 「イケメンがいるって話なんだよ」  ――なんだ、そういう話か。  好奇心に染められた表情に、多少うんざりしながら俺はお湯で溶かすだけのインスタントコーヒーに口を付けた。目覚まし代わりにするなら、これで十分だなと、新島の色めき立った声音に気が変わりかける。 「相変わらずノリ悪ィな。行ってみようぜ。どんなイケメンがいるのか」  今暇だろ? と、腕を引かれて、面倒くさいと返すと「坂井~」と、肩を大きく揺すぶられる。その子供のようなやり取りに、事務所の視線が集まってくると、俺は「わかった!」と、早々に白旗を上げた。 「よーし、奢ってやるから早く行こうぜ」  自分の思い通りに事が運ぶと、けろりと表情を変え、新島は勢い付けて椅子から離れると、さっさと歩き出してしまう。 「え、今か?」 「今に決まってんだろ」  同時期入社の同い年医師ではあるが、新島と俺はタイプが全く違う。  俺は大人しい小児科医で、新島が派手好きな脳神経外科医。俺に比べて新島の方が圧倒的に忙しいはずなのだが、何故ああも小学生のように好奇心旺盛で、元気なのか分からない。  手早く弁当箱を片付けると、後片付けもそこそこに、俺は新島の背中を追いかけた。事務所を抜けると、往来する患者の邪魔にならないように、足早に隅を通り抜ける。 「俺の好みだったらどうしようかなー」 「向こうは分からないだろ」 「辛辣~」  追いついた新島が夢見る乙女のように呟くので、早々に水を差してやるが、特に傷付いた様子も見せず、彼は冬でも咲く向日葵みたいにけらけらと笑った。 「可愛い系の男子だったらいいなぁ」  彼の性の対象は男女問わない。  そういう性分なので、良い男良い女が居ると聞きつけると、素直に興味を持ち、確認せずにはいられないという所があるようだ。  俺は明日遠足だと言われた小学生の隣にいるような感覚で、エレベーターで二階から一階へと降りると、出入りの激しいエントランスへ向かう。一階から建物の最上階である五階までが吹き抜けになったエントランスは、人の騒めきを大きく吸い込みながら、足音を響かせていた。  新しくできたばかりと言える市民病院は、ここら一帯では一番の病床数を誇っており、常に人の出入りが絶えない。  俺達はエントランスを抜けると、何処だろうと左右を見渡す前に、焙煎の香りに気付いて、その方へと顔を向ける。その新しいカフェは自動ドアの白い壁沿いにあった。 「お洒落じゃん」  新島はその外観を褒めて、肯く。  カウンター式の店は、こじんまりしつつも、病院内に併設されているような雰囲気は微塵もない。木目調の柔らかい色のカウンターに、白い背面には棚が三段打ち付けられ、珈琲豆が数種類瓶詰になって並んでいた。どうやら一杯一杯手で淹れるドリップ式のようで、ドリッパースタンドもカウンターの硝子越しに並んでいる。 「いらっしゃいませ」  丁度客が途切れたところで、若い店員と目が合った。彼は白衣の俺達を見ると、 「お疲れ様です」  と笑った。子犬のような愛らしさのある大学生風の青年は、新島の好みだろう、なんて思っていれば、 「大学生?」  と、早速声を掛けているから、呆れを通り越して、感心してしまう。 「一応、俺ここの店長なんですよ」 「へえ、じゃあもしかして俺達と変わらない位?」 「二十四です」 「全然違った。俺達は二十九だ」  そう言って笑う新島は、青年と楽し気に会話を始めてしまい、残された俺は背面の珈琲豆やドリップスタンドを眺めた。すると、 「何か作ります?」  と声を掛けられて視線をずらす。気付かなかったが、ケトルを手にした男が珈琲の暖かな湯気を香らせる向こう側で微笑んでいた。 「あ、じゃあ……ホット一つ頂いてもいいですか?」 「かしこまりました。好みとかあります? 酸味系とか苦味系とか」  そう言いながら、細い糸のような湯を落としていく彼の手は繊細で、思わず見惚れてしまう。いつも適当な目分量でインスタントコーヒーを作る俺とは、何もかもが違う。 「ええっと、良く分からないんで、お勧めでお願いします」 「じゃあ、俺の特別ブレンドで」  そう言いながらふにゃりと笑う表情には、独特な柔らかさがあった。 「田淵、ホット」 「はぁい」 「あ、それ二杯にしてもらえるかな?」  すかさずこちらに向かって新島がそう言うと、彼は「かしこまりました」と丁寧な笑顔を作った。新島はその笑顔に愛想笑いを浮かべた。どうやら、この男には興味が薄いようで、田淵と呼ばれた大学生風の店長に、興味を絞っている。確かに、大きな猫目に薄い茶色のふわふわした髪は、イケメンと可愛いを形容しても違和感がない。見れば見る程、新島のど真ん中ストライクだ。  俺は店長の青年よりも、幾つか年上に見える彼の手元が、一杯の珈琲を生み出していく過程を眺め続けた。一杯目は他の客へ手渡されると、それを受け取った女性は、うっとりとした視線を青年に向けてから去って行く。  確かに、新島の好みではないだろうけど、この男もなかなかの「イケメン」という部類だろう。長めの黒い微かにウェーブの掛かる髪に、くっきりと二重の大きすぎない形の良い双眸。通った鼻筋。遠くから眺めていたい男ランキングというものがあれば、必ず上位の常連となるような外見だ。 「先生は何の専門で?」  豆のグラムを計りながら、彼が世間話のように呟く。 「ああ、小児科です」  そう言いながら、俺は白衣の裏側に隠れていた社員証を取り出して見せる。それにふっと視線を上げた彼の目が一瞬見開いた。固まった彼の手元から、豆が二粒三粒と床に転げ落ちていく。 「どうしました?」  俺がそう首を傾げると、 「坂井しのぶ……? 平仮名で、しのぶ……」 「あ、はい。女っぽいんですよね、名前」  コンプレックスとまでは行かないけれど、偶にそう指摘されるので、先に応えると、 「水原さんも名前平仮名ですよね。さなぎ」  ――え。  新島と話していた青年が、気付いたように話しに割って入って来たその言葉に、俺と彼との間の時間が、カチリと音を立てて止まった気がした。 「水原さなぎ……?」 「え、しのぶ……?」  お互いの声が少しずつ重なり合いながら、昔の記憶が湧き上がるように溢れ返ってくる。暗い病院の廊下、深夜の集中治療室前、またねと振った小さな手。会うという約束を守れないまま、少しずつ罪悪感と共に忘れて行ったその名前。 「知り合いか?」  新島の言葉に、俺達はいつの間にか見つめ合っていた空白の時間から、はっと目が覚めるように顔を上げた。 「本当にしのぶ? 気づかなかったよ」 「俺も……」 「えー、なになに、坂井の知り合い?」 「水原さんに医者の知り合いがいるなんて、意外だなあ」  そう言いながら二人の視線がこちらへと向かう。俺達はお互いと二人を見比べてから、 「あ、ああ、小さい頃、一度だけ会った事あるんだ」  さなぎが苦笑いを浮かべながら、短く言うと、二人の興味は俺達に注がれる。俺達は記憶を辿るように、あの幼いながらに、微かな罪悪感を背負う記憶に触れていく。  言わなきゃいけない事があるけれど、それを言うには、この場の空気は軽過ぎて、 「事故の時なんだよね」  と俺が言葉を濁すと、新島は俺の事情を知っているからか「ああ」と空気を曖昧に濁し、 「でも、久し振りの再会は嬉しいじゃん」  努めて明るく言ってくれる。それに同意したのはさなぎだった。 「あの後、心配だったんだ。でも、俺達お互いの名前しか知らなかったし、ガキだったから、どうやって会えるのかも、会ったとしても、なんて言えば良いか分からなくてさ……」  そう苦く幼い頃を吐露するさなぎに、心の何処かでほっと胸を撫で下ろす自分がいた。 「俺もずっと気になってたんだ」  そう言って合わせた視線は、客と店員としての線を一つ踏み越えた、微かな信頼が滲んでいた。もう二度と会えることのないと手放した糸は、まだ俺に繋がっていたのだ。  それがまるで奇跡のように感じられた。 「なあ、今日何時に仕事終わる? 良かったらどこか飯でも行かないか?」  さなぎの何気ない誘いは、当たり前のような流れで、俺は「もちろん」と頷いた。 「連絡先教えて」  今度は俺から連絡先を聞くと、さなぎは「今度は擦れ違いたくないしな」と笑いながら、ポケットからスマホを取り出した。 「今日は七時くらいかな。さなぎは?」 「俺もそのくらいまでここに居るよ」  スマホに俺の連絡先を登録すると、さなぎは再び珈琲を淹れ始めた。すると、微かな振動音が何処かで響き、俺は新島を見た。きっと呼び出しだ。 「あ、ごめん。俺先戻るわ。急患入った」  新島が胸ポケットにしまっている一昔前の携帯電話を取り出す。彼は短く「ごめん」と告げると、速足で病棟へと戻って行った。 「忙しいんですか? 新島さん」 「うん、脳神経外科だから、多分俺の何百倍も忙しいと思う」  そうなんだ、と青年は興味なさそうに、けれどその実、新島を追いかける視線は、切実に彼を見つめていた。 「新島さんの珈琲、あとで淹れようか。いつでも寄ってって伝えておいてよ」  さなぎに言われて「悪いな」と苦笑いを浮かべると、俺達は短い会話を三人でしてから、珈琲ができると手振って別れた。  手の中にある白い紙コップは、無機質な味気ない真っ白で、店名の印字もない。俺は黒い蓋を外して、入ったばかりの珈琲の湯気を軽く吹き飛ばす。啜るように口を付ければ、仄かな酸味と、深い焙煎の香りと苦みが、舌先からじんわりと、口の中に広がって行く。まろみのある飲みやすい珈琲だ。  俺は黒い水面を見つめて、その微かな水面に映る自分を見つけた。  再会を喜ぶ、小学生の頃の俺がそこに揺れている気がした。  
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