Dinner

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 どこも予約せずにいたせい、入れたのはチェーン店の居酒屋だった。もう少しマシな場所はないかと思ったが、自分自身、人とあまり食事に出かけない性分もあり、これといって「ここがいい」「ここに行ってみたい」という欲求がなかった。それはさなぎも同じだったのだろう。どこにしようかと駅前で男二人右往左往して、ようやく決めたのは安過ぎず、高過ぎず、それなりに繁盛していそうな、平均の真ん中を得た、和食だった。  個室と名ばかりの暖簾越しにうっすらと映る人影と声を隣に、俺達は再会の祝福の一杯を、中ジョッキのビールで祝した。 「えーっと、じゃあ……久し振りってことで」  改まった照れ笑いを音頭に、グラスを合わせ、一口炭酸の強いそれを流し込む。 「まさか、あんなところに居るなんて、驚いたよ」  俺は口元を拭い、昼間からずっと抱えていた質問を口にした。幼い頃、たった十五分程度だけ一緒に過ごした思い出の中、彼の大きくなった姿を思い描くには、情報が少な過ぎた。しかも彼が珈琲を淹れる姿は、あまりにも予想外だった。 「ああ、あれは手伝いで本業じゃないんだ」  さなぎはそう言いながら、割りばしを割ってお通しのキノコのナムルに一口摘まんだ。 「俺、今は調律師やってるんだ。楽器のメンテとかさ」  そう言われて、俺は幼い頃、彼が言っていた「発表会」という言葉を思い出した。そうだ、さなぎはピアノが得意だったのだ。 「ピアノは弾いてるの?」 「いや、実はあの時さ、俺外傷はなかったんだけど、頭強く打ってたんだ。その後遺症で指が上手く動かなくなってな」  だから、あの日からピアノは弾いてない。 「弾けない訳じゃないんだけど、プロを目指すところまでは、もう持っていけないんだよ」  程よく入ってくる店内の騒めきに紛れた告白に、俺はあの時の自信に満ちた幼いさなぎの笑顔を思い出す。それは、繰り返した回想に、擦り切れるように消えていく過程の淡い色合いだった。 発表会に誘ってくれたさなぎが、今は少し遠く薄い。そしてその笑顔は、年月だけが癒してくれた薄い苦笑いに変わっていた。 「しのぶは母さんどうなった?」 「……その日に亡くなったよ。助からなかった」  そう告げると、彼は「そうか」と眉を下げた。お通夜のような空気が流れ、会話の糸口を探っていると、でもさ、と切り出したのはさなぎの方だった。 「再会できたのは嬉しい事だよな」 「確かに。覚えてるもんだよな」  俺達、記憶力良過ぎだよな、と笑うさなぎの笑顔の中に、当時の面影が薄っすらと蘇ってくる。何の証拠もなく笑う彼の強さが、あの時は心強かった。  俺達はそれから、自分達がどうやって育ち今まで生きて来たのかを話し合った。彼はピアノを辞めたけれど、音楽から離れる気にはなれず、ピアノも嫌いにはなれなかった事もあり、高校を卒業と同時に、調律師という職業に就いた。彼に備わっているという絶対音感というのも生かせる、まさに天職だったと、彼は笑った。  少し無理をして口角を上げている彼が、せせりの焼き串を手に取り齧り、咀嚼する。 「しのぶは?」 「うん、俺は普通に高校まで進んで……それから医者になりたいなって。別に母親を救えなかったから、とかじゃないんだけどね」  白い泡の消えた黄色い液体を、喉に流し込む。 「俺、子供って好きなんだよね。無邪気で無条件に可愛くて。保育士とも迷ったけど、誰かをこの手で救えたら嬉しいじゃん」  言葉にすると、意外と自分が母親の死を引きずっているんじゃないかと思わされた。医者になる時、母親の存在を大きくしたくなくて、救いたいという言葉を意識的に避けて来たけれど、俺は誰かを「母親」に重ねているのだろうか。そんな事を考えると、あの母の心音代わりの機械音と、彼の声が響く深夜の廊下が、ひっそりと背後に忍んでいるような感覚に捕らわれた。 「しのぶは立派だな。あの時も思ったけど、毅然としててさ」  不意に褒められ、そんな事ないよ、と首を振った。 「俺、あの時実は一人で病室にいるのが不安でさ。抜け出したものの、何処歩いても暗いばっかで……しのぶ見つけた時、不謹慎だけどほっとしたんだ。だから直ぐに声かけた」  もう時効だと思って聞いてよ、とさなぎはビールを飲み終えると、通りかかった店員にハイボールを頼んだ。 「俺、本当にピアノ上手かったんだよ。神童とか言われちゃってさ。でも、俺はそんな事より、ただ普通にピアノを弾くことが好きだったんだ」  空になったグラスの底に溜まっている思い出を拾い上げるように、さなぎが呟く。 「でもさ、度を越えると子供だけの世界に大人が介入してくるんだ。俺は弾ければどうでもよかったけど、コンサートとかするようになったら、母親が俺に期待を過度に寄せちゃったんだ」  コンサートをすればお金が動く。それは小学生の俺が、どうにかできる話ではない。そう言うと、あとはお察しだな、と運ばれてきたハイボールと空のジョッキを交換して、さなぎは透明のそれに口を付けた。檸檬を氷の隙間に押し込むようにして箸で沈めると、小さな気泡がしゅわりと立つ。 「事故に遭って、ピアノの道が絶たれた時、俺よりも母親が滅入っちゃって。落ち込む暇なんかなくてさ……」  リハビリをしても治らなかったという左手をテーブルの上に乗せると、ゆっくりと開き、ゆっくりと握るを繰り返す。 「もうこれ以上早く動けないんだ」  そこには弱音を吐けずに、自嘲して諦める事を覚えたさなぎが居た。俺はなんと声を掛ければ良いのか分からなくて。 「しのぶ?」  テーブルの上で横たわる左手に手を重ねる。末端に行くほど熱くなる指先、中心がほんの少しひんやりとしている不思議な手だ。 「俺で良ければ聞くよ。さなぎが子供の頃吐き出せなかった事。全部」  そう言うと、さなぎは目を見開いて幾度か瞬くと、吹き出すように笑った。一気に気の抜けるような目尻の皺と、下がった眉に、俺の方が「なんで笑うんだよ!」と身を乗り出して訴える。 「悪い、だって……っ」  さなぎは俺が重ねた手を握った。さなぎの熱い指先が、俺の皮膚に食い込むと、無意識に心臓が一度跳ねた。 「だって、俺より真面目だから」 「真面目に受けとめて欲しかったじゃないのか?」  過去の話、過ぎた事。本当はそんな言葉でまとめられないのに、俺は大丈夫と、きっとさなぎは笑って過ごしたのかもしれない。そして、今も心の中には、色々な思いが散乱しているのかもしれない。  少なくとも、俺にはそう感じられた。  間違っていたら、さなぎが笑う位に恥ずかしいけど。  しかし、さなぎは少し驚いたように目を丸くしてから、困ったように笑みを浮かべた。  手は、繋いだまま。 「……そうかもしれない、聞いて欲しいのかな」  手の中の俺の手を、これは何だろうと探るような声で、さなぎが呟く。まるで他人の心の手触りを言葉に表せと、言われてるみたいに、酷く曖昧に言葉を濁しながら。 「母さんが病んじゃって、そっからまともな飯も食えなくなるし、父さんは出て行くし、結構散々だったんだよな」  そう呟くと、言い訳を付け足すみたいに、今は割と、幸せだと思うけど。と、呟いた。 「ちゃんと飯も食えてるし、友達もいるしな」  さなぎの骨ばった長い指先が、俺の手の甲に浮かぶ骨の形をなぞる。 「でも、こういう話ってあんましないからさ。たまにでいいから、聞いて」  俺はその誘いにもちろんだと頷いた。 「良かったら、今週末俺ん家に飯食いに来ないか? 週末は手の込んだ料理作るのが日課でさ」  良かったら、を言い訳がましく二回も繰り返している自分の自信のなさに気付いて、思わず苦笑いが零れる。自慢するような何かを作れるわけでもないし、誰かに食べさせたこともないから、よくよく考えれば人が食べて美味しいかと思うかどうかと言えば不安だ。けれど、握ったさなぎの手を離したりなんかしたくなかった。 その場限りの約束だと、思われたくはなかったのだ。  明日も、明後日も、その次の日も、ちゃんとさなぎが自分の辿る道に加わった事を、俺自身が自覚したかったのかもしれない。幼い頃守れなかった約束の続きを、再度結び直すように。 「土曜の六時過ぎとかはどうかな?」 「行く」  約束を交わすと、俺達は笑みを深めて、ゆっくりと重ねた手を離した。  食べかけの焼き鳥は、熱を失い、少しだけ固くなっていた。
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