マチルダと共に

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 朝のコーヒーが冷めるまで、また過ぎ行く雨雲をただただ眺めてしまった。 その間にお腹の底から湧き上がってくるような溜め息を何度しただろうか。 三日前から降り続いている梅雨の雨はいっこうに止む気配もなく 晴れた日にはベランダの向こうにくっきりと蒼く見える生駒山の稜線も まるでキャンバスに消し炭を塗りたくったような水墨画のようだ。 トトトント、トトトン、トントントン。 風に乗った雨粒が不規則な調べでガラス窓を叩いてゆく。 地上24階、引っ越してきた当初は心踊らせて見ていたその景色も今は壁に掛かった古ぼけた絵画を見るよう。 ベランダに並ぶプランター。家庭菜園の一角にはもう原型を留めない枯れ草達が雨粒に叩かれゆらゆらと靡いていた。 二つ三つと小さな青い実をつけたミニトマトの木だけがかろうじて1本、私は大丈夫よと言わんばかりに踏ん張っていた。 ─── 持って行かなかったんだよね 引越しの当日、彼が持ってきたのはこのトマトの木だけだった。 これだけは引越屋さんに任せられなくて、そう言ってはにかんだ笑顔を見せた彼の横顔を今でも覚えている。 犬や猫、ペット類など生あるものには興味の欠片も示さない彼だっただけにそれはちょっと意外だった。 後に彼が吐露して分かったことだけど映画に影響されてのことらしい。 冷酷で孤独な暗殺者が大切にする一鉢の観葉植物。最後に命を賭して守り切った少女の胸にその緑の一鉢が抱かれているという件。 誰でも知っている名作だから感化されるのはわからないでもないけど 見て愉しむだけの観葉植物じゃなくて ミニトマトという実を付けるものという選択をしたのがいかにも彼らしい。 つまりはそこでも実利を優先するところが彼の生き方なんだろうな。 単なる忘れ物なのか、 何かしら私へのメッセージとして置いていったのか、 それは今となっては定かじゃないけど。 こうして私の前頭葉に要らぬ刺激を与えてくれるというだけで この彼のミニトマトの使命はちゃんと果たされているのかもしれない。 私はこの木をいつの日からかマチルダと呼ぶようになった。 ヒロインの名前ってベタだけどミニトマトで可愛いしネーミング的にはぴったりかなと。 ──でもそれはそうとそそろそろ引っ越さないと 20畳のリビングダイニングに10畳の寝室。 そして8畳の部屋が2つ。アラサー女の独り暮らしには大きすぎだし使い勝手も悪い。 何よりあいつがいない今、私にはこのバカ高い家賃を払える収入も蓄えもない。 愚痴るなら慰謝料とか貰っとけよって話、 そんな愚痴が溜め息のようにぼそりと漏れた。 いやいや無理無理、戦犯はこっちのほうなんだから すかさず一人芝居のようにツッコミを入れる。 近頃はひとり上手に長けて、悩みや悲しみや苦しみ、そんなもんをひとり突っ込み、ひとりぼけてはその場しのぎに自分を誤魔化すような毎日。 「おまえさ、男ダメなんだろ」 それは行為の直後だった。 ベッドの上でまだ彼の生温かいものが体の中に残るそんなタイミングで彼は私にそう言い放った。 なんも答えられなかった。いつかはばれるそう思いながらも一緒に暮らしSexをして愛を囁き合いどこにでもいるようなカップルの真似事をして日々過ごしてきた。 別に苦痛だったわけじゃない。 彼は好きだったし一緒にいて楽しいし2人で暮らすことで経済的にもこっちとしてはありがたかった。 ただ将来が見えない不安は常にあってそれが私にどこか陰をつくり彼に微妙な何かを悟らせてしまったのだろう。 でもそれでも良かった。いやそれが良かった。 偽りの愛を毎日振りまいて生きるより ほんとの私を分かった上でこの生活を続けれるなら それは私にとっては好都合とも言えるものだった。 だから、そうだよって言ってやった。 謝るのは違うと思った。聞かれないから言わなかっただけで聞かれたら正直に言ったはず。生理的に男より女が好き。でもレスビアンなのかと問われれば一概にそうとも言えない。 男ともできるしそれなりにオーガスムスも感じられる体のつもりだ。ただ愛おしさや相手に対して絶対的な独占欲がつのるのはいつも女で、生まれてから27年、それは変わってはいないし恐らくこれからも変わることはないだろう。 とりあえず私は全面降伏でイエスと認めた。 そのうえで向こうもイエスならそれも男と女の一つの形で 騙しだましやっていけるんじゃないかって思った。 男が好きか女が好きかはアンニュイにさせておく あとは人対人の流れの中でその場その場の自分を演じれば良いと私は思った。 好きなのは確か。男と女で括らずに人として好ましい。理屈を絡めてるみたいだけどそれが私の偽らざるところ何だから仕方がない。 「結婚はできるのか?それで。俺とお前は」 意外だった。そんな言葉が彼の口から漏れるとは思わず 結婚できるのか出来ないのか。そこまで考えたこともなかった。 男を男として好きになれない女が男と結婚する。 それってありなの?って問われれば私はNoと言う他にない。 ジェンダー平等が叫ばれる中で同性同士が結婚も許されようかという昨今のご時世。仮面夫婦も社会に対して体裁を整えると言った実利益を考えれば悪くない選択と考える人間もいるだろう。 でもそれは違う。そこは違うのだ。 結婚するというのは家庭を持つと言うことに他ならない訳で 家庭は嘘で固めては成立しない世界。日々の幸せや自分たちの夢を語る場でもある。そこでの空虚な関係性はいずれは破綻を招く。 真似事は出来るだろうけどおそらく長続きはしない。 あんたの望む結婚はできない そう私はへらへらと笑って答えて見せたのだった。 その翌朝、彼は消えていた。 リビングの大理石の上には帯封を纏った福沢諭吉さまが一束鎮座ましましていた。 勘違いすんなよ、これは向こう3ヶ月の家賃 手切れ金じゃねえし、貰いたいのはこっちの方だ 確かに。言えてる。 ちょっとわらえた自分が何か可愛かった。 けど手切れ金じゃなかったら、じゃあこのお金はなんなのよ 私の辛みもを分かってくれてたって言うことでしょ 言い出せなかった私の辛み。 バイ・セクシャルだけどほんとうに愛せるのは同性である女だけそんな私の心の内訳を一晩考えて分かってくれたあなたを思う。 そんなあなたを3ヶ月経った今でも思ってる自分。 セクシュアルマイノリティ、LGBT そんな人間が勝手に作りあげた括りはぜーんぶほっぽらかして ただただ見た目が雄と雌で向き合ってみるのも良いのかもしれないと思う。 そんな自分がここに居る。 結婚か、女優にでもなったつもりで演じてみる? そう演ってるうち私の内なる何者かが目覚めるかも知れない ─── 結婚はできるのか、それでお前と俺は あの言葉、まだ生きてるのか そうひとり呟くと私の手は目の前のiPhoneに何かに導かれるように無意識に伸びていた。生活に疲れ内なる者と抗うのに疲れその心の隙間を埋めるように もう一人の自分が勝手に楽な方へと舵を切り始めていたのかもしれない。 気がつけばもう雨は上がっていた。 空を見上げれば薄っすらと陽光も覗き、雨雲は東の彼方に移動中のようだ。 iPhoneを耳に当て発信音を聞きながらソファから腰をあげて雨粒の滴り落ちるベランダのサッシ戸をよいしょと引いた。 湿った緩やかな風が頬を撫で、羽根を休めていた名も無き小鳥たちがパタパタと音を立てて空へと舞う。 トゥルルル、トゥルルル 8回鳴ったら止めよう、そう思いながら空を見上げ発信音を私は聞いていた。 遠くで烏が鳴く。雨上がりにはいつも決まって聞こえてくるカラスの鳴き声。今日ばかりはバァカーバァカーとお約束の様に聞こえた。 そうだよな、バカだよな私は 自分から無いとぶった斬っといて、3ヶ月も経ってから 未練がましく寄りを戻そうとしてる。それってただの負け組寸前のアラサー女の所業じゃないの? 雨は止んでいるものの風が運んでくる雨粒がぽつぽつと頬や額に当たっては落ちてゆく。熱くなった頭を冷やすには丁度いい雨粒だったのかもしれない。 一歩二歩三歩四歩とベランダの手すりまで進み出て部屋の方へと振り返る。 天井まであるバカでかいサッシの6枚戸。人差し指1本でスルスルと滑るように開くってここに越してきた当初は子供のようにはしゃいでたっけ。 ここを離れることが怖かったんじゃないのか。この暮らしを手放すことが惜しくて無理やり自分の心を彼に向かわせているんじゃないのか。 目の前にはミニトマトのマチルダがいて、やっぱりこの木だけは枯れていなくて、青々としたトマトの赤ちゃんが鈴なりに実をつけ始めているのが間近で目にすると良くわかった。 ハーブやパクチーやネギといった私がひとり張り切って植えたこの菜園の住人たちは梅雨を前にしてもうほぼ全滅状態で枯れ木の賑わいを晒しているというのに。 なんでこの子だけが元気なのか。まともに知恵を回して考えることもなかった そんな事を構えて考えてみる時間も心の余裕も無かった。 細い幹の根元に拡がる白い粒粒。土の間から見え隠れしていて表面の土を手で掬ってみるとそれは一面真っ白な世界が現れた。 それは入れておけば水やり不要の高分子なんちゃら。名前はよく分からないけどNHKの菜園番組でも頻繁に登場するワードだから私でも知ってた。 「なに?どうゆうこと?」 やっぱりわざと置いていったんだ、ここに放置することを想定して。 でもなんの為に? 決まってる、ここに戻ってくる為に。それはすなわち私が彼を捨てきれない事を見切っての事なんだろう。 何やってんだろわたし。 そんな彼の想定内の筋書きにのせられて 電話で甘えた声でもだして泣きの一つも入れるつもりだった? 何を意味してそんな大切なマチルダを置いていったのか。 そんなことを深く考えもせずに。 敗北感に打ちのめされる。惨め度120%。ノックアウト寸前。 目の前のシャッターがガラガラピシャンと落ちて閉店終了。 真っ暗闇の中で悪魔がこちらを指差してゲラゲラと笑ってた。 おまえは何様なのか トランスジェンダーなアラサー女? そんなのを看板に掲げて人生押し通っていけると信じてる女 流されて自分らしく生きられないと意地を通してみせた女 それが好きにもなれない結婚もできない男に頼って生きる? まるで娼婦の生き様じゃないか 薄っぺらで大した覚悟もないトランスジェンダーな生き様 結局金かだけのやっぱりな女じゃないのか 男と女の隙間にLGBTがどうのと持論をぶちまけた癖に 結局そんなもんはなし崩しにして男の○○○にしがみつこうとしてる。 「もしもし、もしも〜し!!」 握っていることも忘れかけていたiPhoneから聞こえてきたのは彼の声。 慌ててiPhoneを耳に当てると駅の中なのか通り過ぎていく電車の音が聞こえた。 「もしもし、小夜子?もしもし?」 「なに?」 「なにって?おまえがかけてきたんだろ」 「「ごめん、間違えただけだから。じゃ切るね」 「ちょっと待てよ!電車1本やり過ごさせといてそれはないだろ」 それはないってどういう事よ、その言葉はモゴモゴと私の口の中で転がって声にはならなかった。 「ずっと鳴ってたし、間違いなんかあり得ないだろ」 相も変わらずこの男は私に対する観察眼だけは鋭い。 「マチルダが…」 「ええっ!?なんだよ、マチルダって!?」 駅の雑踏の中で声の大きさにちょっと引く。ここで長々と私だけのマチルダなミニトマトストーリーを話しても恐らく彼には1ミリも伝わらないだろう。 ただマチルダに対する私の答えだけはもう出ていた。 「ミニトマト、名前、マチルダ」 単語の羅列。それが今の私の精一杯の遠吠えだ。 「相変わらず意地張って生きてる、っていうかこれからも私はそうやって生きてく」 何を誰に宣言してんの?前後の脈絡ぜんぜんないし。 けど彼にはその意味はぼんやりと届いたらしく 「そっか、何か突然で良くわかんないけど、変わんねえやつだなお前は」 「そっ、変わんねぇやつ」 ハハッフフッと二人で笑えてる自分が嬉しかった。 これでいいのだこれが自分だと電話の前で胸を張ってる自分が誇らしかった。 「それでその俺のマチルダは如何なるんだ?」 「あのトマトの木は土に還すから。あなたには返さない、そう決めたの。 近くの小学校にでも植える。知ってる先生もいるし学習菜園とかそういうのに植えさせてもらう」 一方的にまくし立てる私の話を聞いて これで俺の心も自由になれるわけだと言った彼の言葉には一瞬私の心は動いたけど直ぐに気を取り直して 「リアルレオンみたいでいいじゃん」って突っ込んでやった。 電話の最後に彼はこの秋中国で起業するんだと自慢げに言った。 コロナ明けで温めていたプランが一気に進みだしたらしい。 今年中には日本を離れて向こうでいろいろ始めるらしい。 「絶対お前以上のいい女見つけてやる」彼の言ったその言葉が捨て台詞には聞こえなくて涙が流れる程に嬉しかったのは何故だろう。 「時間大丈夫?一本やり過ごしたんでしょ?」 「今日は半休取るわ。朝からおまえにメンタル持っていかれたし」 最後はじゃあな、またねで終わった二人の会話だった。 それから2年、私は今も家賃27万円のタワマンで頑張れている。 たまに思い出したように更新される彼のインスタには見る度に彼の傍らに寄り添う違う良い女そうな誰かが写っていて、 「まだまだやな優太は」そうほくそ笑みながら私のトランスジェンダーな日常は変わりなく続いている。 それと、あのマチルダは再び私のところに帰ってきている。 小学校の先生の言うところには地べたの土壌には馴染まず育たないらしく 小学校に寄付名目で植えたマチルダは無残に枯れ果てて丁重にお引き取り願われてしまった。 ただ幸いにもというか不幸にもというか死に体だったマチルダはそれから息を吹き返し今では立派な家庭菜園と化した我がベランダ王国の真ん中でその存在感を日に日に増している。 「もうちょっと赤くなればペペロンチーノに放り込んで喰ってやるからね」 どうやら彼のマチルダはやっと安住の地を見つけたようだ。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加