狂暴な野蝶の羽を濡らす雨は夜に煌めく

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 20XX年。僕はこの街から離れない。あの悪夢のような戦争から十年が過ぎても。誰も何も言わない。トーキョーのセタガヤの一等地に【上級女子志願兵大学校】があったことは戦後処理で極秘事項とされた。  土地の価格に影響するから近隣にあった住宅街の人はもちろん、あの学校に関わった人間の頭から忌まわしい記憶は消し去られた。無かったことにみんなしたいのだ。遺伝子改造をしてうら若き乙女を原油精製装置にして、原油を口から吐けなくなると志願兵として激戦地送りにしていたことを。女子志願兵とは名ばかりで軍人の現地妻をしていことは戦後のこの国のトップシークレットになった。  セタガヤがカタカナ書きになったのは2050年のことだ。地名の漢字が読みにくいと移民からの意見が多く出て、全ての地名はカタカナ表記になった。そのセタガヤにあの学校は作られた。僕は工業製品メーカー創業家の子息として、兵役についても親の根回しによって比較的安全な閑職を与えられた。士官学校を優秀な成績で卒業したのに、戦うことなく終戦を迎えた、形ばかりの女子軍事学校の教員として。  セタガヤにその学校を作った軍の上層部は、女子エリート教育のイメージ作りのためにセタガヤを選んだ。日本中に高級住宅街として知られているセレブリティ溢れる街。用地買収では相当な高値で国が交渉して、数々のお屋敷が色のついた値段に納得してセタガヤから撤退した。戦時下でも富めるものはさらに富み、貧しきものは奈落の底に突き落とされるように貧しさを極めていった。  そこに作られた学校を戦後大急ぎで取り壊して再開発が始まった。セレブの街セタガヤはあの学校の跡地だったことなど無かったように賑わいを取り戻した。僕は学校の跡地だった場所に小さな一軒家を建てた。戦後の混乱で財産を多少は失った我が家も、三男坊の僕に再開発中のセタガヤに60坪の土地と二階建ての家を買い与えられる程度の資産は残っていた。海外の銀行に資産を移していて、没落は免れた。 「実さんはいつになったら身を固めるの?」 母はセタガヤに家を買い与えるときに溜め息をついた。 「さあ。その件がご不満でしたら家は自分の金で買いますよ」 僕の適当な返事に、さらに深い、雷雲から轟くような低音の溜め息で答える母は毒を吐く。 「あなたはもう三十五歳。あっという間におじさんになりますよ。贈与税を少しずつ払っても三人兄弟に資産は分散化させて置かないと。いつまた戦争になるかわかりませんし」 「そうですね。いつまた戦争になるかわからないから、僕は一人で構いません。兄さん達は家庭を築いてるから跡継ぎは足りますよ」 「あなたはかなり理屈っぽいわ。だから女性に疎まれるのよ」 「ご忠告ありがとうございます。こう見えて仕事場では誠実な重役として上手くやってます」 「ええ、そうね。堅物専務のあだ名はお父様も笑っていらっしゃったわ。女性でスキャンダルを起こすよりはいいじゃないかと」 「マスコミはその手のスキャンダルが好きですからね、気をつけています。創業家の三男として葉山家の名に恥じないように品行方正に振る舞います」 「三十路の男が家を買うというのに一人暮らし。品行方正は結構だけど仕事中毒ね」 「ええ。僕は仕事と結婚したと思ってどうか諦めてください」 「ときどきこちらに顔を出して。諦めるかどうかはわからないけれど食事でもしましょう」 「はい、お母様」 そんな会話をしてメグロにある葉山家の実家から僕は一人セタガヤへと移り住んだ。
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