狂暴な野蝶の羽を濡らす雨は夜に煌めく

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 新しいセタガヤの街はまるで暗黙の了解のように大きな繁華街を抱えていた。大昔の住人が見たら卒倒するだろう。シンジュク、ロッポンギは敵ではない。ギンザかセタガヤかというほどに高級路線の店が立ち並ぶ。口にする者は居なくても、【上級女子志願兵学校】の跡地だと知られているからだろう。不謹慎なことに軍服もどきを着て酔客に酒を注ぐ店まである。  僕は、この新しい繁華街を裏から仕切ってる山猫組の若頭に、和都田美波の顔写真を渡して見掛けたら連絡するように頼んである。美波が学校の教え子であることは伏せた。葉山家のメイドだったが手癖が悪く僕の貴重な切手コレクションを盗んだ犯人として探して貰っている。  あの学校の教え子だと真実を伝えれば当然裏社会の人間は察しがつく。昔の女を探していると勘違いされる。大学校とは名ばかりで、親のコネで安全な閑職にありついた教員の軍人は、生徒を小遣いで釣って女生徒達を侍らせていた。終戦間際で軍規は乱れていた。僕は小遣い銭などで生徒を釣っていない。しかし、裏社会の人間に余計な話はしたくなかった。強請りたかりのネタにされる。純粋に教え子の安否を確認するためだと言っても奴らはそうは受け取らない。あの大学校の教員だった、それだけで脅迫のネタにされかねない。  一人暮らしをしているセタガヤから今日はヨコハマの工場へ視察に来ている。新しいライン稼働を見届けるためだ。工場長の説明を受けていると腕のウォッチ型端末とゴーグル型のレンズに、連絡が入る。山猫組の若頭が短く、 「和戸田美波発見 山猫組 川久保」 短くゴーグルに通信システムの連絡の文字が映る。自分にしか見えないので便利だが仕事に集中出来ない。工場長には報告書でまとめて報告するように伝えて、珍しく僕は仕事を途中で切り上げた。ゴーグルの通信システムで返信。 「どこにいる?」 「セタガヤのクラブ、バタフライです」 僕は通信システムと平行して、腕時計型の通信機で検索システムをスマートに起動させる。バタフライというクラブはセタガヤでも庶民向けの、いや、セタガヤになんとかしがみついてるような安っぽい店だった。 「…。あまりいい店でないな…」 「セタガヤより店の客層とカラーはシブヤかシンジュクってとこですね。どうします?」 「店に行って指名して盗んだ切手の事を問い詰めたい」 「葉山さんも律儀な。俺の顔があれば今すぐ呼びつけて切手を弁償しろって言えますが?」 「金を返して欲しいんじゃない。切手よりも換金しやすい高価なものが部屋にはあった。よりによって僕が集めていた切手を盗んだ理由を知りたいのさ。店でいい、安酒もたまにはいい」 「なるほど。コレクターを怒らせると怖いですね。いやいやよく出来た作り話で。【上級女子志願兵大学校】の葉山先生?和都田は教え子。情報提供料はもう少し弾んで貰えますかねぇ」 山猫組の川久保の声が、ざらりとしたライオンの舌のように舌なめずりをしている。動揺を見せてはいけない。早鐘のように鳴り響く鼓動を押さえようと一つ息を吐く。 「それがどうした?和都田美波にも聞いてみろ。そっちが考えてるような話ではない」 「もう聞きましたよ。小遣い銭もくれない生真面目でつまらない奴だと愚痴ってましたね」 「その通りだ。報酬金の増額は無理だな」 「葉山さんは甘いなぁ。ちょっと脚色して噂を流せばマスコミが食い付きますよ。あの学校の話は伏せても元軍人が若い女性軍人にセクハラをしていた。その男はなんと鉄鋼メーカー創業家の三男で今や重役。どうします?」 「和都田に裏を取りに行けば嘘だとバレる」 「ケッ、甘々で話にならねえな。美波は話を合わせるとよ。プラス500で手を打つ。美波の取り分は2割。あんたは100万で売られたのさ」  驚いて息をするのも忘れて喉の粘膜が乾いてが張り付く。言いなりになって金を払えば何かとむしり取ってくるに違いない。好きにしろと川久保を突き放してマスコミに金を握らせて黙らせる方が早い上に効率がいい。ただ…。  戦禍を生き延びた美波が、金に困って川久保の策に乗ったのなら…。脅しに屈したことにしておこう。山猫組若頭の川久保がつけあがるようなら組長の三毛田に仲裁して貰う。山猫組と葉山家の密かな付き合いは戦前からだ。やり過ぎれば自分の身が危ないと川久保も心得ているだろう。 「わかった、500で手を打つ」 「流石は葉山さん、ものわかりがいい。バタフライの美波の出勤日は今すぐ送ります。好きなときに会いに行ってやってください」 シフト表らしきものが通信ゴーグルに表示される。 「ああ、そうするさ」 僕は乱暴に腕時計型端末のスイッチを切った。
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