狂暴な野蝶の羽を濡らす雨は夜に煌めく

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 バタフライは安っぽい白の合板のテーブルに赤の量販店で買ったようなソファが置かれていた。美波の源氏名は澪だった。黒服に澪を指名すると伝えて、僕は店内を見回す。安っぽい内装に安い酒、埃の被ったシャンデリアもどき。 「こんばんわ、みおでーす」 安っぽい店に相応しい舌足らずな喋り方。シャンデリアもどきから目線を下に向けると、安い店には不似合いなゴージャスな美女がソファに腰かけていた。着ている紫のドレスは店のランク相応の化繊のテロテロとした安物なのに、緩くウェーブした赤茶色の髪に、深紅の口紅。雨上がりの虹のアーチに縁取られたようにくっきりとした二重で、瞳はブラックダイアモンドのように妖艶に輝いている。白い肌は古のギリシャ彫刻のように美しい曲線を描いている。 「こんばんは。僕のこと…覚えてる?」 澪こと美波は水割りを作りながら声を潜める。 「川久保さんから聞いてる。葉山先生だよね、久しぶり」 「うん…久しぶりだな」 会話が続かない。話したいことが沢山あったはずなのに上手く喋れない。前時代の遺物として記念発行のときにしか話題にならなくなった郵便切手の話をしたいが、場違いな気がする。何を話したらいいものか、いざ再会すると全くわからず水割りに口をつける。 「先生…。物理と数学教えてよ。なんでまだ生きてるのかわからないけどさ」  彼女の笑顔は誰よりも美しく悲しかった。  あのとき…。彼女が卒業するときに生きて再会出来たら数学と物理を教えてほしいと頼まれた。殆んどの生徒は遊び呆けて授業に出てこない。遺伝子改造の効果の原油精製人間。原油が吐けなくなったら激戦地送りで軍人の現地妻。そして…。一人残らず処分される存在。隙を見て現地で脱走して逃げろと教えたのは僕だ。 「数学はそうだね…三角関数はわかる?」 「わかんない、三角関係ならわかるけど」 「三角形の面積の公式はわかるだろ?」 「底辺×所得格差÷2=この国の平均所得」 「オイ、洒落にならないぞ。面白いが」 「算数まではわかるけど数学は全然ダメ」 「じゃあ中学数学からかな?」 「うん。フフ、なんか変なの。勉強を教えて貰ってお金まで貰えるなんて」 「約束したから守るだけの話さ」 「約束なんて…破る人ばかりなのに変わってるね、葉山先生は。そういう人好きだよ」  彼女は今クラブのホステスをしている。深い意味はない。深い意味はないと心で10回唱えても落ち着かない。酒を飲み干して答える。 「僕も君が好きだ。だからここに通って数学と物理を教えに来る」 「ありがとう。本当変わったお客さんだね」  彼女が不意に抱きついてきて一瞬で離れる。陽炎のように紫のドレスが揺れ、胸の谷間からタトゥーが覗いていた。羽根が虹色のアゲハ蝶。隠そうともせずに彼女はお代わりの水割りを作り始めた。黒い羽根の中の模様は虹の7色だった。まるで、アゲハ蝶は天使のように彼女の乳房の上のデコルテで羽根を広げて誇らしげに踊っていた。  中学数学の因数分解を教えて、二時間ほど滞在してクラブバタフライを後にする。狭いアスファルトの道路は春の冷たい雨上がり。雨上がりの霧が真夜中のネオンを隠す。排水溝からは近くにある、ただれたいかがわしい店が大量にお湯を流したのか、湯気が立ち上っている。 「先生…あのね。私は先生のアドバイスをよく覚えていて脱走兵としてなんとか逃げ延びて外地でダンサーをしてた。脱走兵だから身を隠すのに足元を見られたからまともなダンスじゃなかった。でもね、踊ってるときだけは何にも縛られずに自由なの。トーキョーになんとか帰ってきてこのクラブのホステスになってさ。腕利きの彫り師がいるって聞いて彫って貰った」 「綺麗だよ…和都田もそのアゲハ蝶も」 「ありがとう。一つだけまともなダンスを踊らせた貰えたの、外地のその店で。白いパニエがついたロングドレス。まるでウェディングドレスみたいな可愛いドレスだった」 彼女は「虹の彼方へ」を英語で歌いながら、雨上がりのアスファルトをゆっくりとターンする。黒いハイヒールが水飛沫を跳ね上げた。 霧に隠されたネオンの光が雨粒を虹色に輝かせる。「虹の彼方へ」の一節を優雅に踊ってから彼女は不意に立ち止まる。 「でも綺麗なダンスは儲からないからさ。虹色のアゲハ蝶を入れたたのはね、「虹の彼方へ」の曲へのリスペクトだけじゃない。原色の目を引く衣装を何着も着替えて踊ってさ。鼻の下を伸ばした男から金を巻き上げてたのがオーナー。脱走兵だからぞんざいに扱われてお金なんか殆んど貰えなかった。この蝶は地獄だった外地から生還した私の生き抜いた証なの」 また、春の冷たい雨が降り始める。僕は和都田を抱き寄せて彼女の胸元に刻まれた虹色のアゲハ蝶のタトゥーにキスをした。 「また来るから…その…。いっ、一緒に生きる意味を探そう」 和都田に馬鹿にされて笑われると身構えた。 「先生は哲学も教えられるの?面白そう」 彼女の目から溜まっていた涙が零れて可愛らしい笑みがこぼれた。 「高校までで習う内容なら哲学もなんとか」 「じゃあ、次は哲学の授業して」 「わかった、またな和都…じゃなくて澪」 「うん、またね」 彼女は小さく手を振って見送ってくれた。 ※この後結末が2つあります※
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