壱書:黄宝館の金鶏

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05:雷帝の白虎王 部屋の向こう。 扉一枚隔てた先から、ふいに聞こえてきた乱暴な口調が、来訪を告げたのは雷帝の白虎王イルハであることを物語っている。 「はぁ、んなこと知るかよ。オレに指図すんな」 恐らく、ニガナがアザミと同室で過ごすように進言したのだろう。 ゴマ婆から他の四獣と同じく、イルハも花魁の部屋に通すようにと、言われたのかもしれない。可哀想なニガナは、勇気を出して苦手なイルハに声をかけたのに、大きな声で一括されて悲壮な顔のままアザミの私室へやってきた。 「あねさん。イルハ様は隣の監視室にこもられるそうです」 「聞こえていたわ。わっちもその方が嬉しい」 先ほどまでコウラがいた。 入れ替わりでイルハに来られても、対応できる準備が整っていないとアザミは深く息を吐き出す。実際、湯上りで濡れた髪は結ってもいないし、袖を通した着物は帯も結べていない。 七日間の監視役は十五歳で顔見せした時から変わらず、コウラ、イルハ、ヒスイ、アベニの順だが、十代の頃はまだしも、二十代に入って、さすがに一緒の部屋で過ごす日は滅多になかった。 それがここ最近、毎日誰かと一緒にいる。 コウラの前にはアベニがいたが、気を抜けば垂れてきそうになるほど注がれた白濁の液を思えば、やるべきことが先にあるとアザミはニガナを近くに呼んだ。 「ニガナ。ゴマ婆から薬を預かってる?」 「はい。これからはアベニ様がお帰りになったあとも飲ませるようにと」 「……はぁ」 白湯の入った器と薬が包まれた紙の乗った盆が目の前にやってくる。 ニガナが運んできてくれたものだが、用意周到さに目がくらむと同時に、ゴマ婆にはどこまでも知られている事実に困惑する。 「こんなの……全然、身がもたない」 アベニはコウラやヒスイと違って、一日目の夜に交わっただけだが、それでもその後二日間は引きずるほど濃密な行為だったのだから気が抜けない。 身体をいたわる名目で、指で散々ほぐしてくるのは、出来ることならもうヤメテ欲しい。 おかげで残りの三日は、人形にでもなったような気分だった。 元から世話好きなアベニは、食事も湯浴びも何もかもを率先してやりたがり、大丈夫だといっているのに、アザミへの度が過ぎる奉仕を散々してから帰っていった。 そのせいでコウラに七日間抱きつぶされる羽目になったことは考えないでおきたい。 「ニガナ、いつもごめんね」 ニガナは食事を運んだり、湯を用意したり、乱れた寝台を整えたりしてくれているが、ここひと月ほどで急激に変化した生活に随分と苦労をかけているなと思う。 小さな体で文句も言わずにせっせと働く姿は禿の鏡だと尊敬の念を抱くほど、ニガナは本当によくしてくれている。 「わっちは、あねさんの役に立てて嬉しいです」 「でも、他の姐さん方のお相手と違って、最近はコウラ様やヒスイ様、アベニ様たちが四六時中いらっしゃるから気が休まらないでしょう?」 「そんなことありんせん。イルハ様はちょっと怖いけど、四獣様はあねさんを守ってくださいます。それに最近は特に、アザミ花魁が大事にされているのがわかるので、ニガナはゆっくり休めるようになりんした」 今までは監視役と花魁の寝所の間にある禿部屋で待機を余儀なくされていたため、物音があればすぐに駆け付けられるよう気を張っていたが、今は一緒の部屋で過ごしているから安心して好きなことができるとニガナは言う。 「ありがとう、ニガナ」 アザミはお礼を口にして、嬉しそうに笑うニガナをそっと抱きしめた。 何度、この健気で、献身的な姿に支えられただろう。あと四年もすれば、ニガナも客を取る年齢になる。良縁に結ばれ、身請けされる相手が見つかるように願わずにはいられない。 「ニガナ。今夜は久しぶりに、笛でも吹こうか」 舞が得意なニガナのため、笛を吹いてあげるのはよくあること。 イルハが別室で過ごすなら、たまにはニガナのために時間を使うのもいいだろうと、アザミは笛を取り出して、静かに音頭を取り始めた。 そうして一日目の夜が過ぎ、二日目の夜も過ぎ、三日目の夜になったころ。 ニガナが大きな箱をもって部屋にやってきた。ひとりでは無理だったらしく、数人がかりでぞろぞろと複数の箱を運んでくる。 「……なにごと?」 「イルハ様のご実家から届きんした」 イルハの実家が有名な華粧の呉服屋であることは知っている。 新しい衣装を頼んだ覚えはないと言いたいところだが、貢物は日常茶飯事。それでも、アザミに直接運ばれる献上品は珍しく、何の知らせもなく突然、大量の箱が運び込まれてくると驚きもする。 「これは、イルハ様からアザミ様への贈り物なので、必ずお渡しするように申し使っております」 「あねさん、あねさん。開けておくんなんし」 アザミは運び込まれた衣装箱の中でも、とりわけ華美な包装のものを直接受け取る。それを見たニガナが目を輝かせるのは無理もなく。一緒に運んでくれたらしい数人の手伝いもその箱の中身は何かと期待した眼差しを向けていた。 「イルハ様は隣にいらっしゃる?」 「はい。普段通りに」 「…………イルハ様」 アザミが目を閉じて静かに名前を呟くと、室内に亀裂が起こるような閃光が走る。次に目を開けてみると、微弱な電流が空気に混じるそこに、不機嫌そうな顔をしたイルハが立っていた。 「何か用か?」 短く切った白銀の髪と銀灰の瞳。一匹狼のように周囲を寄せ付けない独特の雰囲気。アザミよりも二歳年下の四獣王は、今にも噛みつきそうな勢いでそこにいるのだから、ニガナを含めて手伝いに来た少女たちはみな委縮した様子で頭を下げている。 「イルハ様のご実家から頂戴しんした」 アザミはイルハの舌打ちを聞かないことにして、「開けても?」と了承を得る。 ふんっと鼻を鳴らす態度で「いちいち聞くな」とイルハは言いたいようだが、アザミは「どうぞ」と返事を脳内変換することにして、箱のふたを両手で開けた。 瞬間、それまでうつむいていた少女たちの顔が跳ね上がり、キラキラとした輝きをもって興味関心を引いたのがわかる。 「……これは」 凄い、キレイ、素敵。周囲が感嘆と羨望に渦巻く中、アザミは呆気に取られて箱の中身を見つめていた。 白地に金木犀が全面に描かれた着物。 白は雷帝であるイルハの髪色と同じ。金木犀は四獣白虎を意味する花。着物で告げたいことがわからないほど野暮ではないが、イルハから贈られる意味が理解できない。 「いらなければ適当に処分しろ」 イルハは用が済んだとばかりに退散しようとするが、背を向ける直前、アザミに服の裾を掴まれて、それができないようだった。 仕事ができるニガナたち黄宝館の面々は、その動作ですべてを悟ったのか、先ほどまでの浮かれ具合を一層して全員が無言で部屋を去っていく。 取り残されたのは、無言のイルハとアザミだけ。 「あ、申し訳ありんせん……つい……」 咄嗟に掴んでしまったと、アザミはイルハから手を放して頭を下げる。けれど、イルハは立ち去ることも、舌打ちすることもなく、黙ってじっと見つめてくるだけだった。 「姉貴たちが勝手に贈っただけだ、他意はない」 「……わ、わかっておりんす。でも、イルハ様からの贈り物は初めてで、その……ありがとうございます」 イルハにじっと見つめられると、言葉がうまく出てこない。 昔はそうではなかったのに、いつからか、イルハとの間に距離を感じるようになった。今ではすっかり言葉も交わさなくなったのだから、他に何を言えばいいのかもわからない。 年齢を重ねるにつれ、可愛いだけではなくなった男の子。 いつも不機嫌そうな態度をされるから、すっかり嫌われていると思っていた。 贈り物をされて好意を期待した自分が恥ずかしいと、勘違いを指摘されたアザミの顔が赤く染まる。 「それやめろ」 「……え?」 金木犀の着物を挟んだ微妙な距離を保つ中で、イルハの双眸がアザミを見下ろしていた。 いったい、何をやめろといっているのか。 アザミが首をかしげると、イルハは苛立った様子で舌を鳴らした。 「オレの前でその言葉遣いをやめろ」 そこで、前に遊郭で使用される独特の言葉遣いはキライだと言われたことを思い出す。 もう何年も前の話で、他人がいるときには自然と花魁であることが身についていたから忘れていたと、アザミは慌てて頭を下げた。 「申し訳あり……ごめ、んなさい」 深々と頭を下げると「いちいち謝ってんじゃねぇよ」と小さな声が聞こえてきたが、どかりと近くの椅子に腰を下ろした音が聞こえてきて、アザミは再度顔をあげる。 室内を照らす行灯。窓から差し込む提灯の光。色とりどりの光がイルハの姿を映しているが、夜空に垂れこめる月ほどイルハを照らすものはないのかもしれない。 天女に愛された美しい白虎。 あと数日で新月を迎える欠けた月でさえイルハの存在を浮き彫りにし、白銀の髪と瞳があらゆる色を反射して、幻想的な美しさでそこにある。 「あの、イルハ様」「イルハ」「……イルハ」 他人行儀な口調もキライだと言っていたことを思い出す。 夢を見ていた十代の頃ならまだしも、呼び捨てることに変な勇気が必要なことを自覚しながらアザミは小さな声でイルハの名を呼ぶ。 「イルハ」 「なんだ?」 イルハは呼び捨てにされて、ようやく会話する気になったのか。 アザミの方を向いて、それからアゴで、アザミにも隣に座るよう促した。 「わっち……わ、私、イルハに嫌われてると思ってたから、あの……あのね。どんな理由であっても、贈り物、すごく嬉しい」 「んなもん、色んなやつから散々贈られてんだろ?」 「そんなことありんせ…っ…ないよ。基本的には受け取っていないし」 イルハと肩が触れ合うほどの距離で会話するのは何年ぶりだろう。 そもそも声を聞くのが久しぶり過ぎて、イルハの声が記憶よりも低く変わっていることに驚く。身長や体格は見れば一目瞭然だが、やはりイルハも「男」なのだと意識するには十分な迫力だった。 「イルハのお姉さんにお手紙、書いてもいい?」 しどろもどろになりながらも、なんとか伝えられたとアザミはイルハの方を向いて固まる。 至近距離にあるイルハの顔。それよりも無言で伸びてきた手に、結いそびれた髪が耳にかけられる。まるでそうであることが当然のように、頬を撫でられたのは気のせいではないだろう。 イルハのざらついた指が熱をもって、頬に触れている。 「……し」 「……え?」 「かんざしとクシ、それから香……身に着けるものばっか」 イルハの言う「色んなやつ」が誰を示すのかわかって、ますますアザミは混乱する。 勘違いでなければ、嫉妬に聞こえる。 うぬぼれていいなら、着物を贈ったのは、他の四獣に「アザミはオレの女だ」と誇示したいと言っているように聞こえる。 「……受け取ったんだろ?」 イルハは悔しそうな顔で唇を曲げ、すねたように瞳を少し下げた。 イルハには言えないが、イルハはわかりやすい。 ときどきそれで勘違いしてしまうが、顔や態度に感情が全部出るのは昔からで、変わったように見えて、変わっていない仕草や反応が少し嬉しい。 「たしかに、コウラ様、ヒスイ様、アベニ様から贈られて」 胸の高鳴りを感じながら告げれば、明らかにイヤそうな表情へとイルハの顔が歪んでいく。 聞き間違いでなければ「簡単に受け取ってんじゃねぇよ」と返されたような気がする。 なぜ、そんなことを言われるのか、わからない。 だけど、心臓の音が妙に大きく鳴り響いて、これが夢ではないと訴えてくる。 「アザミ」 単純に見つめられて名前を呼ばれただけなのに、どうしてこんなにもドキドキと心臓の音がうるさいのかわからない。 イルハは嫉妬しているのだと、明確に告げてくる態度がざわざわと神経を撫でて仕方がない。好きだと言われていないのに、告白を受けたみたいに身体が火照って熱くなる。 触れるか触れないかの距離にある肩が、必要以上に熱く感じる。 それなのに「笛、吹けよ」とはどういうことだろうか。 一瞬、言われた意味がわからずに「はい?」と返してしまったことで、今度はイルハが顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。 「一昨日、吹いてただろ。アザミの笛……好きだ」 そんな風に言われれば、笛を吹かないわけにもいかない。 仕方なく笛を取りにいき、披露するために床に膝をつこうとしたところで、「ここで」とまたイルハの隣に座るよう指定される。 「アザミ」 今度は何かと、笛に唇が触れるか触れないかで呼ばれた名前に、アザミは視線だけで先を促す。イルハに名前を呼ばれるのは随分と久しぶりだなと、どこか嬉しく思ったのもつかの間。「着物……大事にしろ」と消え入りそうな声が聞こえてきて、アザミは最初の一音を見事に外した。
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