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壱書:黄宝館の金鶏
01:帝国の統治王
消沈の夜が終わり、朝が過ぎて、また夜を迎えた黄宝館の最上階で、アザミは能面を張り付けたような無表情を装っていた。
「…………」
「…………」
なぜ、このようなことになっているのか、説明を求めていいのなら説明を求めたいが、相手は帝国で一番尊い存在なのだからそれはできない。
長い金髪を高い位置でひとつに結び、同じ金色の双眸を持つ男。
端正な顔立ちと上背のある体格。黙っていれば彫刻のように美しく、それでいて無言の圧力が何とも言えず重たい空気を連れてくる。王としての威厳が染みついているのだろう。
ひん死の重症患者だった面影はどこにもない。
本当に傷は大丈夫なのだろうか。いや、それを気にしてどうする。
アザミは内心暴れ狂う心境を必死になだめながら、懇切丁寧にお茶をいれ、それをそっと隣へ座るジンへと差し出す。
「……ありがとう」
意外と律儀に礼を言ったジンの様子に驚きながらも、アザミは表情にそれを出すことなく視線を伏せた。昨日の今日で、どういう反応が正解かわからない。
昨晩のことは忘れろと言ったジンが黄宝館を正面から訪ねてきたのは三十分前のこと。それは阿鼻叫喚の嵐で、ゴマ婆に至ってはニヤけ顔を通り越して悪役顔といえる笑みを浮かべていた。
「ごゆるりと」
そう言ってアザミのもとへジンを案内した後、立ち去るゴマ婆の足音は鼻歌交じりで小刻みに浮いていたようにも思う。あとで何を問われるか怖い。内心身震いをするアザミを知ってか知らずか、お礼を言ったジンはアザミの入れたお茶を無言で口に運んでいる。
「すまなかった」
お茶を飲んで、それから膝に手をついて頭を下げたジンに、アザミの口は開いたままふさがらない。一瞬、皇帝陛下に成りすました下男か宦官かと疑った。けれど、そこは教養ある黄宝館の最高妓女。すぐに口を閉じて「なんのことでありんしょう」と優美に首をかしげてみせた。
「二十年、正面からお姿を見せることがなかった陛下をひとめみて、皆の気持ちも舞い上がっておりんす。突然の訪問に驚きんしたが、黄宝館は陛下の家も同然。ゆるりとお過ごしいただければと」
「違う。わたしは、昨晩のことを言っている」
「昨晩……はて、なにかありんしたか?」
私と陛下は初めて会う。その姿勢を崩さないアザミの姿に、ジンは唇をかんで、それからおもむろに服を脱ぎ始めた。
「な……何をなさって」
「いいから、見ろ」
見ろと言われて素直に見れるなら苦労しない。
昨晩は負傷していたので致し方なく手当をしたが、アザミからしてみれば、初めての異性。それも美しい男の裸。正気で赤面せずにいられるなら、二十年も引きこもりの花魁はしていないと、アザミの目が泳ぐ。
「邪獣にやられた傷がすべて塞がっている。跡形もなく、この通りわたしは生きている」
アザミの右手首を無理やり掴んで、自分の肌に触れさせるジンの行動にアザミの脳が混乱を起こしている。
傷が塞がっていることは知っている。塞がった経緯はもちろん、傷が癒えた現場にいたのだからわざわざ告げられなくても理解している。それでも何を告げればいいのだろう。ひん死の男にまたがって、乱れた姿など、できることなら思い出したくはない。
重症の男と交わり、ひとりではしたない声をあげていたことを本人に知られるのは恥ずかしすぎると、アザミの顔は真っ赤に染まっていた。
「昨日は突然のことに理解が追いつかず不適切な態度をとった。命の恩人にすまないことをした」
「なっ……何のことか、わっちには」
「忘れろと言ったことを取り消す。なかったことにしていいものではなかった。今夜は謝罪と礼に来たのだ。何か欲しいものはあるか?」
たった一晩で、人が変わったような態度をみせるジンに理解が追いつかない。
昨夜、招集した四獣から何か言われたのだろうか。
触れる肌は怪我の後遺症もなさそうだが、もしかすると頭の方に後遺症が残ったのかもしれない。
「なんだ、何か失礼なことでも考えている顔だな」
「いっ、いえ」
行燈の薄明かりでなければアザミは表情をうまく取り繕えなかったとひとつ咳ばらいをして、それからそっと右手を掴むジンの手を振り払った。
「忙しい身の上、わっちのことはどうかお構いなく」
「しかし、そなたはこの黄宝館から出ることが出来ないだろう。欲しいものがあれば遠慮なくいうといい」
本当に、行燈の薄明かりだけが頼りの室内でよかったとアザミは思う。
そうでなければ、短時間でころころと変わる自分の表情にジンを困惑させていたことだろう。数分前は乙女のように赤面していたが、いまは怒りのような苛立ちを感じている。
黄宝館から出ることができない。
それを知っていながら二十年も放置したのは、どこのどいつだと告げてやりたい。
「わっちは黄宝館の花魁でありんす。囚われの身であれど、欲しいと望むものは大抵叶うゆえ、お気遣いはいりんせん」
声を震わせないように気を張ったせいで、いつもより小さな声になってしまった。
それでも二人きりの空間。他に物音がしないのだから、隣にいるジンには無事に聞こえたことだろう。
私はあなたがいなくても一人で生きていける。
それが伝わったかどうかわからないが、ジンは口を閉ざして何も応えなかった。
「これを見ておくんなんし」
居心地の悪い雰囲気を一層するように、アザミはジンの目の前に菊の花をあしらった和菓子を置く。
「見事な菊の菓子でありんしょう。わっちを模した菓子だそうで、禿のニガナが嬉しそうにくれんした」
「ああ、あの小さな少女か」
「あの子は、わっちの身の回りの世話をよくしてくれておりんす。それに四獣の皆様も日々、様子見に訪れてくれんすから、陛下から欲しいものはありんせん」
笑顔の練習をしていてよかったと心から思う。
妓女としての心得は二十年前に黄宝館の住人となった日から叩き込まれてきたが、実演も問題ないとこれで証明できるに違いない。アザミは、ニガナからもらった菊の和菓子を元あった場所に戻すと、すっかり冷めたジンのお茶を入れなおすために腰をあげた。
「体の動かし方が不自然だ。どこか具合でも悪いのか?」
誤魔化せていると思ったのに、ジンは意外とめざといらしい。
アザミの心情には疎いのに、腰を上げる際にわずかによろけた様子には気付くのかと、鈍いのか鋭いのかわからない態度に苦笑せざるを得ない。
「具合は、ようございんす」
体調は問題ない。自然にそう口にしたのに、ジンは納得いかない顔をして、それからハッと気づいたように顔をあげた。
「まさか、わたしの怪我を治したせいでそなたの身体に異変が生じているのか?」
「は……え?」
ジンが突然立ち上がり、肩を掴んで向かい合わせになるよう身体をひっくり返してくる。その衝撃で手に持っていたお茶はこぼれたが、覗き込んでくる真剣な目にアザミはごくりと喉を鳴らした。
「どこがつらいのだ?」
金色の双眸に見下ろされると、窓の外を煌めく提灯の明かりよりもさらに眩しい月明りを連想させた。冷たいのに温かく、それでいて優しく照らす満月に思えてくる。
それなのに、肩を掴む手は逃がさないと言わんばかりにアザミの回答を待っていた。
「どこ……と申されましても」
お茶がこぼれて空になった器を持ちながらアザミは困惑の息を吐き出す。
応えないと放してもらえない。無言の圧力がアザミの心拍をあげていく。
「……腰、が」
できることなら気付かないでいてほしかった。ジンは自分に興味はないのだから、絶対気付かないと思っていた。でも、現実はそうではない。
予想外の展開に、つくろいきれなかったアザミの顔が羞恥に染まり、それから震える声で「昨晩、乙女を失ったので……腰が、その……」と小さく声を落としていた。
本当は腰だけではなく、窓から指先を出そうとした後遺症も拍車をかけて体調を悪化させている。けれど、相手は統王。黄宝館から花魁が逃亡を計れば罰することができる。
ジンに告げるのであれば、処女喪失の事実だけで十分だろう。
そう思ったのに、これはこれで想像以上に恥ずかしかった。
「…………」
「…………」
肩を掴んだまま、無言で見つめてくるのをやめてほしい。
アザミは空の茶器を指でもてあそびながら、見下ろされる羞恥にじっと耐え続ける。
いつまでこの時間が続くのか。ちらっとジンの顔を見上げたのがいけなかったのかもしれない。
「……ッ」
昼間であれば、赤面したジンの顔が拝めたであろう衝撃にアザミの手から茶器が転がり落ちる。
なぜジンまで真っ赤な顔で固まっているのか。
そんな顔をされると、変に心臓が早くなって落ち着かない。
「っ、あ……あの……陛下?」
落ちた茶器を拾おうと腰をかがめる直前、大きな影が覆ってきたと思った瞬間、アザミはジンに抱きしめられていた。
理由は分からない。
知りようもない。
ただ、現在進行形でアザミはジンに強く抱きしめられている。
「わたしのために、ありがとう」
耳に聞こえる程度の小さな声が、心からの感謝がこもっている気がして、なぜか少しだけくすぐったい気持ちになる。
「本当にすまなかった」
「……いえ……わっちも、無我夢中で……」
ジンの心音が聞こえてくる。昨晩と同じく、肌の表面を打つ鼓動が心地よく響き、溶けあうような安らぎに満ちていく。
痺れが残っていた体がラクになっていく気がする。
そういえば、ジンは陰禍を払う力があるのだったと、アザミは思い出したように肩の力を抜いた。
「こうして触れ合っているのは、いまだに実感がありんせんなぁ」
その小さな呟きは、ジンの耳には届かなかったらしい。
「ん?」と首を傾げたジンに、アザミは「陛下が無事でようございんした」と曖昧に誤魔化して、心音に耳を傾ける。
昨日は獣の傷跡が深くにじんでいたジンの肌も、今は健康体でそこにある。自分が治した自覚はないが、きれいに治ってよかったとアザミはジンの肌の表面をその手で撫でた。
「……痛みはありんすか?」
「そなたのおかげでこの通り健康体だ。あのときは意識が朦朧として、よく覚えていないのだが……腰に痛みが残るほど無理をさせたの、だな」
「いえ……これしきの、こと」
高鳴る心音に会話が続かない。強く抱きしめられているせいで、いやでもジンが男なのだと感じてしまう。昨日は裸同士で触れ合った身体が、今は布越しにあるだけ。それなのに布の下を思い出して、いやらしい記憶が浮上しそうになる。
「アザミ」
名前を呼ばれて、アザミはジンの鼓動を聞いていた顔を静かにあげる。
そういえば、名前を呼ばれるのは初めてかもしれないと、何も不審に思わず顔をあげた自分が愚かだったと、アザミは塞がれた唇に息を止めた。
「……っ……ん、ん!?」
気のせいでなければ接吻している。
整ったジンの顔がすぐそこにある。
両手で包まれた頬は動かず、唇が触れ合っている。
いくら暗がりの部屋でも、自分の身に起きていることは把握できると、アザミは呆然とジンの口づけを受け入れていた。
「なっ、ゃ……ヤダッ」
現状にようやく追いついてきたアザミの身体は、反射的にジンを突き飛ばしたが、その際、ぐらついた体幹のせいで体勢を崩し、世界は平衡感覚を失っていく。
「ッ」
どさりと、人が二人倒れこんだ音は、気のせいではない。
アザミが後頭部を床に打ち付けなくて済んだのは、ジンが咄嗟に腕を伸ばしてかばってくれたからだろう。けれど、そのせいか、おかげで、アザミはジンに組み敷かれる形で床に身体を投げ出していた。
「っ、危なかった。大事ないか?」
「……は、はい……」
「そうか、よかった」
長い金色の髪が垂れて、ほっと息を吐くジンの顔をアザミに見せる。
「…………っ」
そんな顔を知りたくなかった。民衆から慕われ、部下から憧れられ、誰もが口をそろえて好感触を示すジンを知りたくなかった。
自分だけは、ジンを嫌いでいたい。
死んでほしいと思った。
ジンが死ねば、自由になれる。
窓から指先一つ出せない不自由な生活も終わる。
そう思っていた。
「アザミ、やはりどこか痛めたのか?」
この世は無情で出来ている。
咄嗟にイヤだと口にしたが、口づけそのものがイヤではないとわかってしまった。
殺さなくてよかったと思ってしまった。恨めしさを募らせ、寂しさを紛らわせた日々は消えないのに、ジンが無事でよかったと思ってしまった。
それでも二十年放置されたことは、簡単に許せそうにない。
複雑な感情を抑えきれずに涙を浮かべるアザミの様子に、ジンは狼狽えながら首をかしげている。やはりジンは優しくても、女の心情に疎いらしい。
「陛下、欲しいものがありんす」
意地悪をしても許されるだろう。いや、無理難題をいいつけて、滅茶苦茶に困らせたい。
咄嗟とは言え、組み敷いた女が泣きながら微笑む姿をジンも俄然と見下ろし続ける。
アザミが欲しいと願うもの。
「わっちに、自由をおくんなんし」
出来る限り叶えようと思ったのもつかの間、聞こえた台詞にジンが返せる言葉はどこにもなかった。
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