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「真矢様」
真矢が寺から道場に戻り裏門から庭先へ入ると、道場主の娘、静香が困ったように立っていた。
齢十七、花のように美しく、祝言が決まってからはさらに艶が加わったように見えた。腕には可愛い仔猫を抱いている。
「静香殿。その仔猫はどうされた」
ふと昔を思い出して、真矢の目が笑った。
「まだ小さいのに、母猫とはぐれた迷い猫のようです。どうしたものでしょうか」
「米粒をつぶしたものを食べさせてやるといいでしょう。夜半は冷えますので、家の中に入れ寝床を作ってやるとよいかと」
「そうですね。そういたします」
静は肯いてから、思い切ったように続けた。
「あの、真矢様」
「はい」
「真矢様は、どこかへ行ってしまわれたりはしませんね」
自分と文吾の祝言のあとに、という意味を含んでいた。
「もちろんです」
真矢は静香に優しく微笑んだ。
ふと静香は半年前、やはりここで真矢と言葉を交わした日のことを思い出していた。
その日父から、真矢が静香との縁談を断ったと聞いて、どうしてと問わずにいられなかったのだ。
「幼き頃、私がお祭りで母とはぐれて迷子になったとき、真矢様は私を探し出して手を繋いでくださいました。あの時、私がずっとお守りしますとおっしゃってくださいましたね」
静香は真矢を責めるように問うたのだった。
「はい」
真矢は穏やかに肯いた。
「では、どうして……」
どうして、自分との縁談を断ったのかと聞きたかった。
「あの時の気持ちは変わりません。これからは、静香殿と文吾を一番近くで守っていきます」
静香は落胆し、俯いた。
その翌月、正式仔に静香と文吾の婚約が発表されたのだった。
「さあ、寒いから中へお入りください」
静香がその時のことを思い浮かべていると、真矢が告げた。
祝言を数日後に控えた娘が、黄昏時にほかの男と二人というのはまずかろうと案じていた。
真矢に促され、静香は仔猫を抱いて屋敷に入った。
真矢はその姿を見届けると、道場裏にある門弟用の長屋に戻って行った。
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