9 何度でも、あなたの名前を

1/6

10人が本棚に入れています
本棚に追加
/47ページ

9 何度でも、あなたの名前を

「お願い……待って!」  遠ざかっていく背中に向かって、リーシャはあらん限りの声を振り絞った。  見覚えのある背中は、その声を聞いて静かに足を止める。  しかし、前を向いたまま背中の主はこちらを向こうとはしてくれない。  振り向かない彼を前に、リーシャは気持ちを落ち着かせようと静かに深呼吸を繰り返す。  ――何を探しているのかもわからず、ただ自分に足りない「何か」を追って駆け出していたリーシャ。  それは深い霧の中を手探りで進んでいくようで、足元すらおぼつかない不安な探索であった。  でも、その背中を見た瞬間に不安は確信へと変わった。  欠けているのは()()、と相手の名前もわからないのに実感を掴む。 「お願い……こっちを向いて」  呼びかける名前がわからなくて、震える声でリーシャは懇願した。  少しだけ躊躇いを見せてから、目の前の彼はゆっくりと振り返る。  黒い髪がふわりと風に(なび)き、その顔を露わにした。  キリリとした眉、すっと通った鼻筋、薄い唇……そんな精悍な顔立ちがリーシャの記憶に残ることなくするするとこぼれ落ちていく中で、ただ彼女を見つめる灰緑の瞳だけがリーシャの魂を撃ち抜いた。  優しく、甘く、それでいて苛烈な程に熱の籠もった灰緑の瞳。  リーシャをずっと見守ってきてくれた、忘れたくないその視線。  ――間違いない、彼だ。私の執事だ。
/47ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加