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それから、彰浩には予想もしていなかった日々が訪れることになった。
彰浩さん、なんていう呼ばれなれない名前に、好きですなんていう甘い言葉。他人の目を盗んで愛しむように触れてくる指先。どこまでも優しい眼差し。
全部初めての経験で、彰浩は数日で翻弄され、毎日必要以上に心臓は激しく仕事を続けていた。
そんなある日の夕方、彰浩がデスクワークを終え、一息ついた時だった。机に載せたままだったスマホの画面が光り、彰浩はメッセージのポップアップを見ただけで鼓動を早めた。
そのメッセージの着信が誰からのものか予想はつく。しかし、彰浩はこれが一番慣れなかった。
『彰浩さん、仕事中ですか? よかったら夕飯一緒しませんか? 彰浩さんの顔見たいな』
毎日何通も送られてくるメッセージ。こんな文面ならまだいい。夜中のメッセージなんか、彰浩には直視できなかった。それでもそれは嫌ではない。むしろ心地のいいもので、自然と顔が火照るから不思議だ。彰浩は『俺もそうしたい』と返事をして席を立った。
「――それでその友達が……彰浩さん? 聞いてます?」
静かな音楽が流れるカフェバーで向かいに座る光屋が怪訝な顔で彰浩を見やる。その瞬間、はっとして彰浩は光屋の手元から顔へと視線をずらした。
「ごめん、聞いてるよ。それで?」
彰浩が作った笑いを光屋に向ける。正直光屋と二人で居ると、どうしたらいいのかわからないのだ。前はなんでもなかったことが、気持ちを確認した途端、ぎこちなくなる。
「おれの話、つまんないですか?」
光屋は持っていたグラスを置くと、眉を下げ、テーブルの上で組んでいた彰浩の手に手のひらを重ねる。彰浩の心臓が跳ねたのは言わずもがなだ。
「い、いや、そんなことは……」
こんなに甘やかされるのは初めてで緊張してるだけです、なんて素直に言えるほど可愛くない彰浩は、かぶりを振るのが精一杯だ。そんな彰浩の手を光屋はその長い指で絡め取るように握った。そのまま自分の口元に持っていき、軽く口付ける。
「み、光屋くん、ここ、店っ……」
「翔太郎って呼んでくれる約束です。だって、この間も残業中逃げられたし。あ、今度の休みはウチに来ませんか?」
この間、とはおそらく残業中にスーツを脱がされそうになって拒んだことだろう。残業中に光屋と会うことは以前と変わらず続けていたが、以前と違うのは明らかにそれが『恋人との時間』になったことだ。以前はコーヒーを飲みながら談笑していたのに、手を握りキスをする時間になったのは、嬉しいと思うけれど、同じだけ戸惑いもあった。だから、スーツに手を掛けられた時は、驚いて拒んでしまったのだ。本当に嫌だったわけではない。
それに続く家への招待は、間違いなくセックスの誘いだ。彰浩はゆっくりと手をひっこめて、へらと情けなく笑った。
「次の休みは予定あるんだ、ごめん」
「予定、ですか? どんな?」
「どんなって……新製品の勉強会があって」
「それって一日かかるものですか? 少しでも時間……」
「ごめん。今度必ず予定合わせるから」
光屋の言葉を遮るように彰浩が頭を下げる。すると深い諦観のため息が光屋の唇から零れた。
「わかりました。でも、おれ、彰浩さんみたいに大人じゃないから……なるべく早くしてくださいね」
そう言うと、光屋はそっと体を乗り出して彰浩の耳元に唇を寄せた。
「彰浩さんと、ちゃんと恋人として繋がりたいんです」
最後に軽く耳朶にキスを残して光屋が離れる。彰浩は反射的に耳を押さえて、赤い顔で光屋を見つめた。その顔がふわりと綻ぶ。
「やっぱり可愛いな、彰浩さん」
「……お前、キャラ変わり過ぎ。会ったころはもっと可愛かった」
眉を寄せ、怪訝な顔を見せると、光屋が首を傾げる。
「そうでしたか?」
おれは元々こんな感じですよ、と笑う光屋の顔を見て、彰浩は首を捻った。もう少し、初心で可愛かった気がするのは気のせいだろうか。
「彰浩さんのことは、初めて会った時から、キレイな人だなって思ったんです。冗談でもおれにせまるような仕草が出来るんだから脈あるかもって正直思いました。彰浩さんが、可愛いおれを求めてるのもなんとなくわかってましたし」
利用させてもらいました、と光屋が飄々と言う。彰浩は眉根を寄せながらため息をついた。初めは偶然だったにせよ、恋愛慣れしていないからと自分に近づいてきたのは、裏にそんな考えがあったからだと思うと、それを疑いもせず快諾していた自分が少し可哀そうにも思えた。
「そんな策士だとは思ってなかったよ」
「真剣なんですってば。彰浩さんに近づきたくて、気に入られたくて――全部おれのものにしたくて」
光屋はまっすぐに彰浩を見つめ、微笑んだ。けれど彰浩は頷きながらも視線を手元へと移す。
やっぱりまだ慣れないのだ。こうやって、愛情をもって自分を欲してくれることに。今まで自分の体を欲しいと言ってくれた人は居た。けれどこんな風に心ごと欲しがられるのは初めてだ。どうしたらいいのかわからないし、自分がどうなるのかもわからない。わからないは、怖い。
彰浩は、ごめん、と胸のうちで謝ってからグラスを傾けた。
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