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「――よし、おしまい」  見積もりを仕上げメール送信すると、彰浩はデスクチェアにもたれるように伸びをした。 「お疲れ様、北さん」  同僚の女性が片づけをしながら彰浩に微笑む。彰浩は、悪かったね、と口を開いた。 「こんな時間まで付き合わせて。まさか、もう一回今日中に見積もり出せなんて言われると思わなくて」  それでもそれを嫌と言わずこなすのが営業という仕事だ。同僚もそれを充分承知しているようにかぶりを振った。 「私は構いませんよ、北さんとなら」 「はは、そう言ってくれると助かる。俺は、これからもう少し残るけど、帰るよね?」 「北さん、帰らないんですか? もう十時になりますよ」 「んー、でも他に仕事残してるし」 「なんだ残念。食事でも誘おうと思ってたのに」 「そりゃ残念だな。また誘ってよ」  彰浩は笑いながら答えて笑った。 「ホントですよ? 連絡してくださいね」 「うん、今度ね。お疲れ」  その言葉に同僚は、お疲れ様です、と笑顔でオフィスを後にした。彼女を見送ってから彰浩はフロアのライトを消し、デスクライトだけを点けて机に載せられた書類を拾い上げた。片手でネクタイを緩めながら席に着く。  この状況にも随分と慣れてきた。元々営業は残業の多い部署ではあるが、深夜までというのは稀だ。しかし、彰浩はわざと残業をして深夜に帰宅するようになっていた。  家に帰って、真崎に会わないようにするためだ。真崎に会って、結婚式の話でもされたら、自分が正気を保っていられるのか、本当に分からなかったのだ。結婚なんかやめろよ、と言うくらいならいい。それが元でケンカでもしたら、なにもかも終わりだ。それは避けたかった。だったら、忙しいふりをして会わないのが一番いい。 「さてと、始めるか」  明日でもいいような書類の作成や、まだ頼まれてもいない見積もりに手を出したりするだけなのだが、それでもここに居るのが一番居心地がよかった。ここに訪れ、自分に声を掛けるのは一人だけだったから、行きつけのバーよりもずっと気楽だ。  そんなことを考えていると、静かな廊下に、コツコツという靴音が響いた。いつもの人だと思えば、特に気にすることもなく彰浩は仕事を進める。  オフィスのドアが開き、懐中電灯の明かりが中を照らす。 「お疲れ様です。まだ、お仕事ですか?」  その声に彰浩は驚いて顔を上げた。いつもの声と違ったのだ。お疲れさん、よう頑張るな、というしゃがれた声がいつもは聞こえていた。それに彰浩は、お互い様ですよ、と笑って初老の警備員と顔を合わせる――それが日常だった。けれど今、目の前に居るのは若い警備員だ。  制服のよく似合う、爽やかなくせにどこか色香が漂う美丈夫――彰浩の好みど真ん中だ。 「ああ……いつもの人は? 交代制になったの?」 「あ、桑井さんですか? あの人、腰痛めちゃって。月末で引退しました。今日からおれが担当です。あ、光屋(みつや)といいます」
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