1972時世界

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「ちょっとよろしいかしら?」 私は、ベンチに座るサラリーマンを見下ろしながらも、笑顔は絶やさずにいた。 人間という仮の姿で暮らすには、程々の二面性が必要なのだ。 なんでも本音という訳にはいかない。 サラリーマンは、ふがふがと間抜けな音をハモニカから出して、 「はい?」 と、驚いた顔をして、私をどんぐり眼で見つめた。 「素敵な演奏ですね、ミュージシャンの方ですか?」 流石にわざとらしいと、私は言ってから後悔した。嫌味に聞こえたかも知れない。私はサラリーマンの素性を見極めようと、意識を集中させながら会話を続けた。 「あ、突然話しかけてしまって、ほんとにごめんなさい。あまりにも心に響く演奏に、ついつい興味がそそられてしまって、私ったら…」 「いえ、ありがとう、僕はまだまだ初心者で、ドレミすらも把握していないのですよ」 「そおなんですかあ?」 「そおなんですよ」 「だけど、曲を演奏なされていたのでしょう?」 「ええ」 「曲目はなんでしたの?」 「ピアノマンです」 「ピアノマン?」 「ええ、ビリージョエル、ご存知ですか?」 「いえ、存じ上げませんが…ピアノマンをハモニカで?」 「はい、ハモニカで」 私は違和感を覚えていた。 サラリーマンの素性が探れないのだ。 のらりくらりとはぐらかされる。 まるで生きていない人間のようだ。 こいつに感情はあるのだろうか。 そして、ピアノマンとはなんだ? 何故ピアノで演奏しないのだ? サラリーマンは、そんな私の動揺を見透かしたのか、スックと立ち上がって、 「私のことを知りたいですか?」 「え?」 「困ってますね、お嬢さん、顔に焦りが出ていますよ」 「え?」 「瑠璃色の瞳、意志を持った素直な唇、噂通りだ。山村京都さん。初めましてかな」 「あなたは…」 「申し遅れました。厚生労働省・暮らしやすさ改革担当次官、桂木龍太郎です、よろしくお願いします」 「はあーッ!?」 私は素っ頓狂な声をあげて詰め寄った。 非常識にも程があるではないか。長時間待ちぼうけを喰らった相手は、私の目の前でずっと、下手くそなハモニカを吹いていたのだ。これ程までに無駄な時間を過ごした経験はないし、コケにされた記憶も無い。 
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