1972時世界

3/3
前へ
/10ページ
次へ
それなのに桂木と名乗る男は、余裕の笑みを浮かべながら、事業計画書を鞄から取り出して、 「新しく買い上げた事務所に、他のメンバーも来ているはずです」 「あの…桂木さん…」  「はい?」 褐色肌のポーカーフェイス。 趣味はサーフィンとサウナ風呂。 朝晩のジョギングは欠かさず、朝食はコーンフレークとヨーグルト。 同年代よりも若々しく見られることに快楽を覚え、ナルシストでサディストの52歳独身男。 もし、私に羞恥心や責任感がなければ、今すぐこの場で怒鳴り散らして、仕事の依頼も白紙に戻すであろう。 怒りを伴った罵詈雑言が、口内まで出掛かったお陰で、どうやら私の頬はパンパンに膨れたらしい。 桂木は、 「ハムスターみたいになってますよ」 と言いのけて、その頬を指で押した。 すると、 「てめえゴラァ!何時間も待たせた結果がこれかい!私は待ちぼうけを喰らうような安い存在かい!おう、おう、おうっ!謝罪のひとつもないのかクソッタレ!お役人ってのは何様じゃい!ごめんなさいも言えないのかい!」 辺りに響き渡る私の声に、通行人は立ち止まり、不快な顔をして足早に去って行った。 飛び去る鳩の群れと、水面でバシャバシャと騒ぐ鴨の親子を見つめながら、私はある種のエクスタシーに陥って、その場にへたり込んでしまった。 腰が抜けて立てないのだ。 本音をぶちまけることが、こんなにも快感だとは思っていなかった。 そんな私を、桂木はひょいと持ち上げ、 「さ、行きましょう、お姫様」 と、ウインクして見せた。 「私ったら、恥ずかしい…」 「いえ、僕こそ謝らなくてはならない」 「そうですわ、桂木さんのせいですからね!」 「僕は今、お姫様にどんな言葉を投げかけるべきか…とても苦慮しています」 お姫様抱っこをされたまま、私の身体は路肩に停めてあった軽トラックへと押し込まれた。
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加