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第一章
『機神』。2000年代に飛来した地球外生命体。外見は地球上に存在する機械に非常に似ており、我々地球人とは共に戦う協力関係にある。主な敵対者は『過進化生物』(後述)。機神自体に戦う力は無いが、我々人類と協力することで力を発揮する。
車の運転は完全自動運転となり、誰もが運転免許なんて必要無く、車による交通事故なんて0件。少し前までスマホと呼ばれていた端末は軽量化が進み、小さな腕輪程度の端末から液晶画面を呼び出して電話やメッセージは勿論、他にも様々な機能が使える。そんな3044年のウィニペディアにはこんなことが書かれている。時風航汰は端末の画面を指でなぞり、後述されている項目も読む。
『過進化生物』。機神と同時期に飛来した地球外生命体。名称の語源は進化を意味する[Evolution]と突然変異を意味する[Mutant]を合わせた造語である。人間に寄生し、様々な異形化及び突然変異させる敵対者。寄生された生物は、思考能力・情動共に支離滅裂・不安定になり、襲いかかって来る。彼らに触れられると、同じような症状に見舞われ、やがては同じ過進化生物になってしまう。これらの感染拡大を阻止・消滅させることが我々人類と機神の最終目的である。
しかし、敵対している者の情報はたったこれだけ。機神についても過進化生物についてもまだまだ分からないことが多過ぎるのだ。世界的動画サイトであるミーチューブなんかではこの過進化生物についての考察や機神の陰謀論をテーマにした動画が多く投稿されている。勿論、機神についても様々な憶測や考察がなされているが、今まで国から正式な発表があった訳ではない。
また、過進化生物に関しては日本だけではなく、海外でも時々被害報道があるくらいで、その実航汰達一般人は、これらの飛来以前とあまり変わらない生活を送っていた。だからこそ、世間では機神と過進化生物の対立について、ある意味では一種の娯楽のような扱いだった。
自分とは関係無い。そう、学校でいじめられているような、ひ弱で情けない自分とは一切関係の無いことだと、航汰は思っていた。端末で調べ物をしているうちに学校が見えてきたので、慌てて画面を消してポケットに突っ込む。ああ、今日も嫌な一日が始まる、と彼は重く深い溜息を吐いた。
「こ・う・たくぅ~ん。SB代持って来てくれたぁ~?」
航汰の毎日はそんなふざけた一言から始まる。これから起こることも、彼はもう骨身に刻まれているので、容易に想像がついてしまう。朝に教室へ入ると、いつも気安く肩を組む振りをして首を絞め、友達料兼サンドバッグ代として金を要求してくる同級生達。サンドバッグを略して言えば、教師には気付かれないと思っているようで、その小賢しい策は面倒事を嫌う教師達には専ら良い口実として扱われていた。金が無ければ、ストレス発散として人気の無い場所に連れて行かれ、奴らの気の済むまで殴られ、蹴られ、終いには端末で写真を撮られて「そんげんはか~い」なんて意味すら理解していないような調子でSNSに上げられる。どうしてこいつらは毎日のように証拠写真を撮っているのに捕まらないんだろうと思う航汰だが、おそらくそこは上手くやっているんだろうと大して興味も無いのに考えてしまう。辛い、とはあまり思わない。もう感覚が麻痺してきているんだろうなと彼は特に悲しむことも無かった。学校にいても、家にいても、航汰は自分の心を極力殺し続けて過ごしていた。
家でも同じような扱いだった。両親は航汰に興味が無いのか、最低限の生活を保障してくれるだけだった。特に親子の会話がある訳でも無い。進路について相談しようものなら、最後には結局「稼げる職に就け。親に苦労を掛けるな」だけだ。きっと自分は間違って生まれてきてしまったのだろう、と航汰は諦観を持って自分の人生をやり過ごしていた。どうしてこんなことになってしまったのかは、もうよく思い出せない。気が付いたら、彼は校内カースト最下位の地位に就いていた。
しかし、そんな彼にもいくらかの希望はある。むしろ希望があったからこそ、今まで生きてこられたと言えるのだ。それは幼馴染みの鈴原芽衣奈の存在だった。芽依奈はいつも明るくて元気で、時々物事の本質を突いたような鋭い一言を放つような女の子だ。航汰と違って友達も多い。でも、そんな彼女は何かと航汰のことを心配してくれていた。腕なんて細い女子なのに航汰がいじめに遭っていると大抵、駆けつけて来てくれてはいじめてくる奴らを蹴散らしていた。でも、いつも来てくれる訳ではない。一度、彼女が航汰の状況に気付かなくて、気絶するまで殴られたこともある。だから、全幅の信頼を置いている訳でもないが、全く信頼していない訳でもない。そんな関係だった。
また、そういう存在は彼女だけではなかった。副担任の来間直子もそうだ。彼女はまだこの七賀戸中学校に赴任して来たばかりだが、情熱のある女性教師だ。教室からいじめを無くそうと、航汰のことを気に掛けてくれるが、彼自身に常に余裕が無かった。彼女の言葉は傍から聞いていると、どこか夢見心地で綺麗事のように聞こえてしまうのだ。「いじめを無くしましょう」というスローガンを自ら掲げては当のいじめ主犯に鼻で笑われているような扱いだったが、それでもめげなかった。その諦めない姿勢に航汰がいくらか元気づけられたのは確かな事実だ。しかし、彼女もまた若さ故の危うさから信頼し切るには足らない人物だった。
今回も例に漏れず、放課後、航汰はあまり使われていない教室に連行されることとなった。
無闇に感情を顕わにすると、益々面白がられていじめが酷くなる。そう思って、航汰は無を心がける。自分が生きていること、自分が生まれてきたことには何の意味も無いんだと言い聞かせる。そうしていれば、殴られても蹴られても口に使い古された雑巾を詰め込まれても、いくらかはマシだった。抵抗しようと思ったことは、実は何度もある。しかし、その度に暴力でねじ伏せられ、屈辱に喘いできた。そして、今回は当たりの日なのだろうと、航汰はあまり動かない感情でただ目の前で繰り広げられる光景を見つめていた。
「あんた達、何やってんのよ!! いい加減にしなさいよねっ!!」
「うっわ、ヤッベ! 彼女来ちゃったじゃん!」
突如、教室の引き戸を無理矢理こじ開けて入って来たのは、芽依奈だった。相変わらずの怪力で無理矢理開けたせいで、引き戸の鍵は壊れてしまっている。学校の備品、壊すなよとどこか遠くで思いつつも、航汰は「今日はこれで終わりか」と死んだ目つきで考えていた。長い髪を振り乱し、繰り出される芽依奈の拳によっていつものように蹴散らされた奴らは、慌てて教室を出て行く。それを見届けてから彼女は振り返って、航汰に声を掛けた。
「大丈夫? 航汰」
「今回は割と楽な方だったよ」
「バカ。何慣れてんの。ほら、さっさと立って」
のろのろと立ち上がる航汰に、芽依奈は「ん」と彼の鞄を差し出す。ボロボロになっているそれは何度も乱暴に扱われてきたからだ。今回も窓から校庭へ投げられた物を彼女が取って来てくれていた。それを受け取った航汰はやはり、死んだ目で「ありがとう」と言う。その様子を見ていた芽依奈は、耐えかねたように特に意味の無い声を出して彼の手を取る。突然、手を掴まれた航汰はびくりと肩を震わせるという反射的に怯えた反応をした。
「え、なに?」
「ね。今日、カラオケ付き合ってくれない?」
「……お金持ってないよ?」
「じゃあ、助けてあげたんだから、私にカラオケ奢られなさいよ」
「奢られるって……」
「とにかく付き合って!」
問答無用。そんな態度で彼女は航汰の手を掴んだまま、教室を出て行った。
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