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#10:Bloom.
CM撮影から二日後、ワタシは美咲さんと事務所で話し合いをしていた。
「スケジュールは何とかなりますし、私が何とかします」
真美さん…監督から受けたオファーについて、事務所として『どう』返答するのか、ワタシが『どうしたいのか』について議論を重ねていた。
「お芝居にも興味を持ちましたし、正直言って想像以上に大変でしたけど、何と言うか…その…楽しかった…ですし…」
多少浮かれている部分もあったけれど、『女優』としてのキャリアは、あの監督の元で積んで行きたいと思っていた。
「ワタシは『どんな役だとしても』挑戦したいと思っています!」
「そうですか…では、事務所としてもお受けすると返答してしまって良いですね?」
断るならこれが最後のチャンスです、という雰囲気を感じたけれど『良いですね?』という言葉は、事務所としてではなく、美咲さん自身の気持ちを伝えてくれている様に思えた。
「はい。よろしくお願いします、美咲さん」
「分かりました」と言うと、監督に連絡する為に美咲さんは席を外した。
一人きりになると、彼に言われた言葉が頭に浮かんできた。
『それって花ちゃんのやりたいことなの?』
「やりたいことか…」
この挑戦したいという気持ちが、『やりたいこと』とイコールなのか、ワタシには分からなかったけれど、結果はどうあれ、監督から直々に声を掛けてもらったことに、恩義と可能性を感じていることは、紛れもなくワタシ自身の意思だった。
電話を終えて戻ってきた美咲さんから、大まかなスケジュールを聞いたワタシは、来週からの撮影に備えて、監督がメガホンを取った作品を、出来るだけ多く観ようと心に決めた。
「監督、この度はお声掛け頂きありがとうございます。本日から海をよろしくお願い致します」
「キミは相変わらず堅いね〜、マネージャーさん」
掴みどころが無いけれど、撮影中に見せる監督としての顔は、まるで別人のようで『鬼』という表現が一番しっくりくる人だった。
「まあ、今日は衣装合わせと見学だから、あんまり構えずヨロシクね〜」
「はい!よろしくお願いします!」
新人…というよりも、素人同然のワタシは、最低限『挨拶だけでも』シッカリしようと決めていた。
ワタシに与えられたのは『灯』という名前の高校生で、ストーリーの中盤から登場する、主人公を『いじめる』設定の女の子だった。
この時のワタシは、まだ台本すら渡されていなくて、監督からは「他の演者の芝居と、その雰囲気を観て何かを感じて欲しい」とだけ指示されていた。出番が来るまでの一週間は、共演者たちが作り出す『明るくて平和で楽しい空間』を眺めることに費やされた。
主人公の『澪』を演じる女優の未来は、ワタシと同い年の十九歳で、明るい澪とは正反対で、普段は物静かで大人しく、声が小さい子だった。実生活でも『いじめ』を受けた経験があって、高校は中退したらしい。ワタシも高校生活では『浮いた存在』だったし、いじめと定義づけられるのか分からないけれど、似た境遇にあった彼女とは、自然と仲良くなることが出来た。
「そういえば未来って、どうして女優になろうと思ったの?」
女優としての先輩から、『主人公を演じることになるまで』のプロセスを聞くことは興味があったし、新人のワタシは、吸収できるものは何でも吸収したいと思っていた。
「私は…その…なんて言うか…あのっ…自分じゃない…人…別人になりたかったと言うか…それに…お芝居をしている時は…楽しいから…かな…」
「確かに!楽しそうだもんね!」
「あっ…ありがとう…嬉しいなぁ…」
こうやって『素で』照れる未来を引き出せる事が嬉しくて、何とも言えない背徳感があった。
「う…海ちゃん…は、どうして…女優…やろうと思ったの…?」
「ん〜、ワタシは監督から誘われて、この現場に来た感じ。ほら、前に話したCMを撮ってくれたのが監督で、その時に直接オファーされたんだよね」
「そっか…才能…あるんだね…」
少し驚いた顔を見せた気がしたけれど、主演女優であり、座長として『作品の中心』になっている未来からそう言われることは、不思議に思えたけれど照れくさかった。
「ないない、未来には敵わないって。ワタシなんて素人同然だよ?皆さんのお芝居を観て気後れしちゃってるし」
「そう…かな…?」
未来は納得してない様子だったけれど、どうせ端役だろうから、胸を借りる気持ちでやるだけだと思っていた。
「お〜い、お二人さん、お話中に失礼するよ〜」
「監督!お疲れ様です」
ワタシは立ち上がってお辞儀をしたけれど、未来は座ったままだった。
(これが大女優の所作かっ!カッコイイ!)
「海ちゃんコレ、君の出るシーンの台本ね〜。撮影は来週からだから、しっかり読み込んでおいてね〜」
「分かりました!頑張りますっ!」
例え一言しか台詞が無かったとしても、オファーしてくれた監督の為、背中を押してくれた美咲さんの為、主演の未来の足を引っ張らないように、全力で臨む覚悟だった。
「そういえば…現場の雰囲気はどう思う?」
「はい!皆さん優しくて、未来の…未来さんっの、澪が明るくて、雰囲気も同じくらい明るくて、素敵な現場だと思います!」
「そっか…それなら良い感じで撮れそうだ…」
ちょっとだけ含みを感じる言い方だったけれど、「頑張ります!」と伝えると、監督は未来と何やら打ち合わせを始めた。
「お疲れ様です、海さん」
美咲さんは、この現場では芸名に『さん付け』をしてワタシのことをそう呼んでいた。
「美咲さん、お疲れ様ですっ」
たったいま渡された台本を美咲さんにも見せると、嬉しそうに笑ってくれた。
「私も全力でサポートしますね」そう言ってくれる美咲さんの存在は、とても大きくて心強かった。
本読みというものが、どのタイミングで行なわれているものなのか。その時のワタシは知らなかったけれど、この作品で『それ』に参加することは無かった。
受け取った台本に描かれている『灯』は、冷酷非道で、どこまでも主人公を恐怖に陥れるような人物だった。監督からの指示は『場を破壊しなさい』という、抽象的なものだけで、明るくて平和な現場の雰囲気を壊すことは、簡単では無いと思っていた。
ただのモデルで、CMでも走って水を飲んで、ナレーションも『企業名と商品名』を言うだけで、芝居と呼べるものの経験は無かった。
そんなワタシに灯を演じることが出来るのだろうか…。
(監督の作品をたくさん観て勉強したんだ…大丈夫…)
本番スタートの声が聞こえる。
その時のワタシは、すうっと何かが降りて来るように『灯』になっていた。
「どうしたの?話ってなぁに?」
未来は、いつも通り明るく澪を演じていた。本当に同一人物なのかと思う。
「ッチ…そういう言い方が気に入らねぇんだよ!」
「えっ?なに?どうしたの?私なにかした?」
「調子に乗ってんじゃねえぞブス!」
セットの教室の椅子を蹴り倒してしまった…台本には無い動きだったけれど、そのまま芝居を続けた。
「お前みたいなヤツには弱者の気持ちなんて分かんねえよなぁ?!」
澪に詰め寄りながら、目を見て芝居を続ける。
一瞬、澪から未来の顔に戻ったような気がした。
「弱者って…どういう意味…?」
「私はお前らとは違うんだよ…ヘラヘラ仲良しごっこしてんのが正義だと思ってんじゃねえぞ!」
胸ぐらを掴むのは台本通りだったけれど、未来は演技とは思えないほど震えていた。
「ヘラヘラなんて…してない…」
澪では無い、素の未来がそこに居た。掴んだ手を離そうとする未来の手は汗をかいていた。
「触んじゃねぇよ!」
手を振り払い、言葉の暴力を続ける。
「お前…自分の行動が全部正しいと思ってんだろ?」
「…どういうこと…?」
「どういうこと?!しらばっくれんなよカスが!」
携帯を取り出し、受信メールを開いて澪に突きつける。メールには『好きな人が出来た。ごめん。別れて欲しい。』と書いてある。
「えっ…」
「お前は私から彼氏を奪った!これが正しいことって言えんのかよ!」
携帯を澪に投げつけ、涙を浮かべた顔でビンタをして宣言する。澪はショックを受けて、口を開いて黙ったまま聞いている。
「お前を…私は絶対に許さない!地獄に落してやる!」
OKの合図が聞こえたけれど、暫くは灯から戻ってくることが出来なかった。
「いや〜最高だったよ海ちゃん」
監督からそう言われて、苦笑いを浮かべるしかなかった。
「すみません…台本に無いことをしてしまって…」
「いいんだよ〜、ああいうことが生まれるのが、映画の醍醐味なんだよね〜」
思いのほか評価してくれていて、ご機嫌なようで安心した。
「いや〜今日も良い画が撮れたよ〜、引き続きヨロシクね〜」
その場を去っていく雅美さんの姿は、こうなることがわかっていたかのように見えた。
「海ちゃん…お疲れ様…」
いきなり話しかけられて飛び上がりそうになってしまった。
(本当にこの子は存在感が無いというか、女優じゃなくて、忍者の末裔か何かじゃないの?)
「さっきはごめん!痛くなかった?」両手を合わせて、謝罪をした。
お芝居とはいえ、胸ぐらを掴んで携帯を投げつけて、ビンタしてしまったことが気になっていた。
ワタシが叩いた未来の左頬は、少しだけ赤くなっていた。
「ぜっ…全然…大丈夫…凄かった…し…お芝居も…とっても良かった…」
「ホント!?未来に褒めてもらうと嬉しいなぁ」
監督に言われるよりも、『女優:未来』に褒められることは、自分が認められているようで、とてつもなく嬉しかった。
この後も何とか撮影をこなし、映画が公開されるとクチコミで評判が広がっていき、ワタシの想像以上の反響があった。
小さな映画賞で最優秀には届かなかったけれど、未来は『主演女優賞』を、ワタシは『助演女優賞』を受賞した。
その時のワタシは、初めて撮ったCMの放映後から呼ばれるようになった『水の女神』と言う名前から、『主役を喰う女優』という、名誉なのか不名誉なのか分からない呼び方をされるようになっていた。
怒涛のような日々が、あっという間に過ぎ去ってしまった九月末、三ヵ月ぶりに会った彼は、心配そうな顔でワタシに聞いてきた。
「花ちゃん大丈夫?疲れてない?」
「撮影も終わったし、もう落ち着いたから大丈夫だよ。ありがとね」
いつも気遣ってくれる彼の優しさは、『ガソリンが切れた車』のように、空っぽになったワタシの心を満たしてくれた。
でも、この頃から少しだけ『他人の目』を気にしながら生活することに、窮屈さを感じていた。視力は良いのにダサめの丸眼鏡をかけて、髪がペチャンコになるから被りたくないのに、キャップを被らなきゃならないことは不自由この上なかった。
彼も一度だけ似合わないサングラスを掛けて『変装ごっこ』をしていたけれど、あまりにヘンテコ過ぎて笑えたし、『逆に』目立つから止めてとお願いした。
そんな不自由をしてでも、彼と一緒に同じ時を過ごせることは、最高のご褒美だった。
(彼と結婚できたら幸せだろうな…)
そんな事を本気で考えていたし、そうなるような気がしていた。
この日も別れ際、終電で帰る彼は「無理しないようにね」と私に残して、改札に続く階段の途中で振り返り、手を振ってくれた。
それから二週間後、ワタシは久し振りに『瞳さんが担当する仕事』に向かっていた。
十月になったのに、未だ気温は夏のように高くて、これから冬物を着るのかと思うと憂鬱だった。現場は冷房が効いているけれど、効き過ぎていて寒いし、風邪でも引いたらどうしようかと考えると、ついイライラしてしまった。瞳さんに会える嬉しさよりも、胸がチクチクする位にストレスを感じていた。
「おはようございます!助演女優賞殿!」
敬礼されて吹き出してしまった。
瞳さんは、こういう人だったなと『モデルとして』この場所に戻って来れたことに、安心感を覚えた。
「ちょっと、やめて下さいよ瞳さん」
「いや〜緊張しますな〜、肩でもお揉みしましょうか?」
何でだろうか、少しだけムカついた。
「肩が凝る程のモノは無いですよっ」
胸を張って見せたけれど、胸はチクチクとストレスを与えてきた。
「そういう事じゃないよ〜」とケタケタ笑う瞳さんは、本当にブレない人だった。
撮影が始まると、その鋭い目はワタシの変化を捕らえたようで「何かあった?」と聞いてきた。
特に思い当たる事は何も無かった。
彼とも会って心の充電もできていたし、忙しさも落ち着いていたので、瞳さんの見間違いじゃないのかなと思っていた。彼とのことは、未だ誰にも話していなかったけれど、そのことを言っているという様な雰囲気は感じなかった。
(あまり気にすることじゃないかな?)
寒すぎる室内で着る冬服の暖かさに、心を落ち着かせていた。
「えっ…」
年が明けたばかりのこの日、隠していた事を話すと、父は彼に手を上げ、母は私をぶった。中学生になった妹は、内容を理解しているのかしていないのか、何故か泣いていた。
どうしてこんな状況になったんだろう。
ワタシは何か間違ったことをしたのだろうか。
何でワタシたちが謝って、父は怒って、母と妹は悲しい顔をして泣いているのだろう。美咲さんも、一緒になって両親に頭を下げていた。
『ただ一緒に暮らしたいと言っただけなのに』
彼は、父に何回殴られて罵られても、何度も頭を下げ、土下座をしていた。確かに彼は未だ大学生だったけれど、こんなに怒られるとは思っていなかった。
彼も、こういう家庭環境なのかな…。
そう思うと胸はチクチク痛んで、イライラして吐き気がした。
もう、こんな家には居たくないと思った。
それから、結局ワタシは家を出て、実家から少し離れた場所で、一人暮らしを始めることにした。保証人は美咲さんにお願いした。
「花ちゃん無理してない?大丈夫?」
大学卒業を控えた彼は、毎週金曜日の朝から日曜日の夜までワタシの家に泊まりに来てくれて、ワタシが出来ていない家事をしてくれていた。
あの後すぐに、バイトも近くで探そうとしてくれたけれど、両親や妹に会ってしまう可能性があったので、地元で続けて欲しいとお願いしていた。
あれから『一年半』仕事を休んでしまい、『三年以上』家族とは連絡を取っていなかった。
女優の仕事も少しずつ増えていって、大変なことも多かったけれど、それでも、前よりも多くなった彼と一緒に過ごせる時間は、いまのワタシには必要不可欠で、それだけであの出来事を忘れる事ができた。ワタシの体調や、女優としての生活を気遣ってくれて、一緒に外出することは殆ど無かったけれど、隣に居てくれるだけで幸せだった。
「就職祝いと卒業祝いも兼ねて旅行に行こう」そう言い出したのはワタシだった。
彼も最初は『周りの目』を気にしてくれて、断っていたけれど、強引に押し切った。彼と初めて出逢ったあの海を『一緒に』観たかった。
約五年半振りに訪れた想い出の場所は、何も変わることなく存在していた。
未だ寒さが残る東京とは違って、暖かくて心が落ち着いた。
海を見つめる彼は、あの時みたいに少し寂しそうな顔をしていたけれど、あの時よりも大人になって、凛々しくて、四年近く付き合っていても、毎日好きな気持ちが更新されていた。
この四月からは、彼もワタシの家に引っ越してきて、一緒に暮らすことになっていた。ワタシたちの未来は、この海みたいに輝いて、水平線の様にどこまでも続いてい行くと思っていた。
「一緒に住むからには、挨拶をして筋を通さなければダメだ」
彼の説得を渋々受け入れ、ワタシたちは三年の時を越えて、ワタシの実家に来ていた。
久しぶりに見る父と母は、あまり変わった様子は無かったけれど、高校生になっていた妹は、大人びていて別人のような雰囲気を持っていた。
「何年もご挨拶が出来ず、申し訳ありません」
彼の言葉にならって、ワタシも綺麗に座り直して頭を下げた。
「この四月からは、私も社会人になります。娘さんとは、初めから結婚を前提に、お付き合いさせて頂いておりました。どうか、一緒に暮らすことをお許し頂けないでしょうか」
彼は慎重に言葉を選びながら、丁寧に両親に対して想いを伝えてくれた。
「ワタシからもお願いします」
ワタシも同じ気持ちでいることを分かって欲しかった。
「駄目だ」
父から出た『その言葉』は短かったけれど、全てを否定する意味が込められたような威圧感があった。
「鈴宮くん、君は娘から奪うことしかしていないんじゃないか?仕事も休ませたそうだし、私たち家族からも娘は離れてしまった。これがどういうことか分かるか?」
「はい…。申し訳ありません」
「申し訳ないと思うなら、なんで三年も時間がかかったんだ?私たちが、どんな気持ちで過ごしていたか君には分かるか?」
「申し訳ありません。自分でも、どうすれば良いのか分かっていませんでした」
「甘いんだよ君は。花、お前も考えが甘過ぎる」
思いがけず矛先がワタシにも向いてきた。
「こんな男と一緒になって幸せになれると思っているのか?どこが良いのか理解できない。こんな男にお前を幸せに出来るとは思えないな」
こんな男、こんな男ってうるさいな…彼のことなんて何も知らないくせに勝手なことを言うな。
「お父さんに太陽くんの何が分かるの!」
涙と一緒に感情が爆発して、制御できなくなってしまった。
「ワタシは太陽くんに何度も助けられた!今日だってそう!言わなかったらわかんなかったのに、ちゃんと一緒に住むことを許して欲しくてココに来たの!どこが甘いの!仕事を休んでいる時だって、いま仕事を続けられてるのも太陽くんのお陰なんだよ!お父さんには何も分からないでしょ!」
「お前がダラしないから、こういうことになったんじゃないのか?」
そう父が言った瞬間、隣に座っていた彼の雰囲気が変わるのが分かった。
ワタシに『ダラしない』と言った父を、睨めつけていた。彼はこんな恐ろしい顔をすることもあるんだ…いつかワタシに対しても、こんな顔を向けることがあるのだろうか…。
そう思うと、ふと我に返って彼のスーツの袖を掴み、無言で呼びかけた。それに気づくと、彼の顔は冷静さを取り戻していった。
「私は…ダラしないかもしれませんが、娘さんは違います。何にでも真剣に向き合っていますし、誰よりも尊敬できる人です」
「君なんかに尊敬されても、花に何の得があるんだ?」
「いい加減にしてよ!何でそんなことが言えるの!もうお父さんに分かって貰わなくてもいい!ワタシたちはワタシたちだけで生きていくよ!」
勘当されようが、どうでも良かった。
彼と一緒に過ごせるなら、この人に理解されなくても良いと思った。
「ダメだよ花ちゃん…ちゃんと話そう…」
彼は落ち着いてワタシに語りかけてくれたけれど、その顔はどこか諦めているような顔をしていた。
母は何も言わずに泣いていて、妹は静かに、このやり取りを真剣に見つめていた。
「鈴宮くん、君は花から仕事を奪ってでも一緒になりたいと思っているのか?その覚悟があってココに来ているのか?」
「それは…そこまで考えていませんでした」
「その覚悟が無いなら、認めることは出来ないな」
そこからワタシたちは、何も言えなくなってしまった。
ワタシは彼と初めて出逢った日のことを思い出していた。
海に残して泡になって消えてしまった想い。
もう感情の置き場所が分からなくなっていた。
気が付くとワタシの家に戻っていて、隣に彼の姿は無かった。
黙って一緒に暮らそうと言ったけれど、彼は首を縦に振らなかった。
ワタシは彼を失い、彼はワタシから離れてしまった。
今年も一緒に桜を観に行くという約束が、果たされることは無かった。
彼は、どう思っていたのだろう…。
女優の仕事を辞めたくはなかったけれど、彼を失うことも同じくらい諦めたくなかった。
美咲さんや瞳さん、監督や未来からの期待。
背負っているものの大きさ。
自分勝手だなと、自分を責めた。
こうしてワタシたちの初恋は終わった。
それからワタシは、モデルとしても女優としても笑うことが出来なくなってしまった。
『主役を喰う女優』という名前は、いつしか『笑わない女優』と呼ばれるようになっていた。
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