12人が本棚に入れています
本棚に追加
#1:Lost.
眠れなくなったと気付いた時には、もう手遅れだった。
平日はベッドに入っても眠ることができず、目を閉じて起きたまま朝を迎え、金曜日と土曜日の夜だけは、浴びるほど酒を飲んで意識を飛ばす日々を繰り返していた。
『あの面接』を辞退した翌週の月曜日の朝、初めての異変がボクの体を襲った。
スマートフォンのアラームが鳴る。
手探りで画面をタップして、朝を告げるそれを止める。
「はぁ…」
また眠れなかった。ため息を合図に、上半身を持ち上げる。
「えっ…?」
目に映る景色の全てが二重になって見えた。瞬きをして、目を再起動させても視点が定まらない。耳の中で『キーン』という音が鳴り響いて、今度は視界を回し始めた。左手で目を覆って、目を閉じたままにしていても、脳が揺らされている感覚は、ボクを逃がしてくれそうになかった。
目を覆った手は冷えきっていて、親指と人差し指から伝わる額の温度が、異様に熱いことを即座に理解させた。
ベッドサイドに置いてある、蔓延した感染症が『きっかけ』で購入した体温計を脇に差し込んで、合図を待つ。
【39.3℃】
「さすがにマズいか…」
一昔前なら、隠して仕事に向かっていたけれど、このご時世では難しいだろう。時代は令和だ。
揺れる視界が戻らないまま、何とか業務用のビジネスチャットアプリを立ち上げ、支社長との個別ルームを開く。
発熱のため休ませて欲しいこと、できれば感染症の検査を受けてくることを打ち込み、支社長からの返事を待って頭を枕に戻した。
午後には何とか起き上がって、感染症の検査を受けに行くことが出来るようになっていた。
明朝にメールで検査結果が受け取れること、結果が分からないので、明日も引き続き休ませて欲しいことをチャットで連絡した。
【火曜日 8:49 河白クリニック 検査結果のお知らせ:陰性】
ひとまず安心したものの『発熱の正体が何か』を明らかにする必要があった。体温計は未だ39℃台を示していた。
検査結果は陰性だったけれど、まだ熱が下がらないので、これから内科を受診してくることをチャットで報告する。
簡単に連絡を取り合えるこのやり取りは、常に監視されているようで好きではなかった。ただ、機内モードに設定した状態から、電話を掛ける為だけに電波を甦らせることは出来なかった。
内科では、感染症検査は陰性であったこと、不眠状態が続いていることを伝えたところ、解熱剤と睡眠導入剤が処方されただけで、あっさりと診察が終わってしまった。特に風邪だとか、なになに炎みたいな診断名は与えられなかった。
翌日、目を覚ますと不思議なもので、遮光カーテンから漏れる陽射しの明るさから、就業開始時刻を過ぎていることを確信することが出来た。
「ヤバいっ!」
慌てて飛び起きて、恐る恐るスマートフォンで時間を確認する。
【水曜日 9:32】
でも、そのことを咎める様な連絡は来ていなかった。
たったいま起床したこと、急いで出社するという意志を機械的にチャットに打ち込こんだ。
乗換案内アプリを立ち上げ、到着予定時刻を割り出して、到着するであろう時間より二十分遅い時刻を連絡して、急ぎ自宅を出た。
(あの薬は飲んじゃダメだな…)
初めて飲んだ睡眠導入剤の効果に感動したけれど、それ以上の恐怖を覚えてしまった。
「おはようございます…」
申し訳ありません、と言ったかと思う口調を持ってオフィスに入った。気遣ってくれる言葉に、丁寧に頭を下げながら、鞄を持ったまま支社長のデスクに真っ直ぐ向かう。
「申し訳ありませんでした」
深く頭を下げ、月曜日からの不始末を詫びた。
「おっ、早かったね!大丈夫だよ、体調はどう?」
デスクトップから目を離し、ボクの方に体を向けて笑みを浮かべながら、彼女は優しく声をかけてくれた。その優しい言動が、ボクには辛かった。
「ご心配をおかけしました。もう大丈夫です」
「気にしないで」と言われ、会話はそこで終わるかと思ったけれど、彼女からの話は小声で続いた。
「〝ちょっと二人で話そうか〟」
そう促され、着の身着のまま会議室に向かった。
支社長が席に着くのを待って、自分も椅子に体を預ける。
何の話をされるのか見当がつかなかったけれど、鞄から手帳とボールペンを取り出して、今日の日付のページを開いた。
「寝すぎちゃった?」
予想していなかった言葉に意表を突かれまいと、頭を落ち着かせて冷静に、丁寧に言葉を紡ぐ。
「すみませんでした。初めて睡眠導入剤を飲んだので効果が分からず…アラームにも気が付きませんでした」
「わかるよ〜!私も飲んだことがあるから」
「仕方ないことだよ」と頷きながら経験談を話してくれたけれど、どこか見透かされているようで恥しかった。
「すみません…」
それでね、と彼女は話の本題に入った。
「いま何か困っていることはある?」
「いえ、特には…」
「じゃあ嫌いな人が居る?」
「特には…いません」
「どこかに異動したい?」
「いえ…」
口調は優しかったけれど、ガードをしていないボクに、マシンガンを撃ち込むように彼女は問い続けた。
「じゃあ、頼りになる人、味方だと思える人は居るかな?」
(頼りになる人? 味方?)
「そこに書いてみよっか。誰か居るかな?」
促されて、手帳に『頼りになる人』『味方』と書く。
書いたとして何になるのだろうか。頭の中を覗かれるような、恥ずかしい気持ちになったけれど、その二つの存在に当てはまるような人物が、自分には居ないことを痛感した。
ものの五分位だったと思う…でも、その時間は永遠のように長く感じた。結局、書くことも言葉にして発することも出来なかった。
「今すぐに思い付かなくても良い」
そう言われて自分の席に着いたけれど、気が付くと就業終了時刻を迎えていた。
「定時ですよー!帰りなさーい!」
この支社長は部下には残業をさせない、残業させてしまう時は、自分も一緒に残るという考えを持っている人だった。
「あの…今日は遅れてしまったので残ります」
さすがに帰る訳には行かないと思い、何とかやり過ごそうとしたけれど、今すぐ終わらせるべき仕事は無かった。
「定時は定時!帰るよっ!」
そう言われて、従わない理由も無かった。
駅までの道中は会話が一切無く、改札を通り、別路線で通勤している支社長との別れ際、今朝までの不始末を改めて詫びようとした瞬間、二の腕に優しく手を置かれた。
「明日は休みなさい」
今朝の笑みとは違う心配そうな顔と、その温かい手はボクの思考を停止させた。
「へッ?!」
声と呼吸が噛み合わず、裏返ったような声を出してしまった。
「有休扱いで良いから、明日は休みなさい」
「わかりました…申し訳ありません」
「ヨシッ!」とヒラヒラ手を振りながら去っていく彼女が見えなくなるまで、ボクは目で追うことは出来なかった。
一刻も早く、彼女の視界から消えたい。
向こうのホームから、ボクの姿を見られているかもしれない。
とにかく早く逃げ出したかった。
ソファで目を覚まし、冷蔵庫からクエン酸入りのレモンドリンクを取り出して、胃に流し込む。
もう木曜日の昼になっていた。
キリリと胃に染みて痛むのは効いている証拠だと都合良く解釈して、瓶の中身を空にした。
『明日は休みなさい』と言われてからの記憶は曖昧だった。
帰りにコンビニで酒を買い、潰れるまで飲んだようで、ご丁寧にレモンドリンクまで買っていた。そんな自分が少しおかしかった。
(明日はどんな顔をして会社に行けば良いのかな…)
二日前に処方された睡眠導入剤が視界に入る。
(見えない所に置こう…)
薬袋を裏返して、見えない様にテーブルの下に追いやった。
金曜日の朝を告げるアラームが鳴る。目を閉じて起きていた体を起こして、活動を開始する。
歯を磨き、電動シェーバーで髭を剃ってから顔を洗い、少し濡れた手で髪をかき上げる。整髪料は何も付けない。意味の無いこだわりだ。
通勤電車の中で、昨日休ませてもらったことに対する謝罪の言葉を組み立てながら、社内でどう振る舞うべきか考えていた。
会社が入るビルを前にした時、ボクの体は完全に停止してしまった。
(…あれ?)
心音が大きくなり、周りの雑音がシャットアウトされる。吐く息は全力疾走した後のように荒くなり、手も足も冷たくなっていることが分かった。本能なのか、体温を上げろと体が震えている。
目に映る景色は、端から墨汁が染み込むように滲んでいった。
…お……ます………せんぱ……?
「先輩っ!」
背中を叩かれ、視界が白く弾けた。
隣には、ボクの顔を覗き込む男の姿があった。
「おはようございます、先輩」
後輩が不思議そうな顔をして、ボクの顔を覗き込んでいた。
「あぁ…おはよう…」
絞り出すように放った口は、カラカラに乾いていた。
「どうしたんすか?遅刻しちゃいますよ?」
頼りになる人、味方、明日は休みなさい、貴方の人柄を知っていて、変わることは無い。
特に意味は無い。
ボクに向けられたその言葉たちが、濁流のように流れてきて、全てを飲み込んでいく。
ハリボテだと思っていた経験は、全て自分に対しての重圧でしかなかった。
期待されることが怖かった。
体は冷えきっているのに、汗は滝のように流れていた。
「……ぁ……こ、こわい……」
消え入りそうな声だったのに、聞き逃されていなかった。
「なに言ってんすか?ほら行きますよっ!」
(嫌だ…行きたくない)
いま行ってしまったら、全てが終わる気がした。
オフィスに入ると、すぐに体が拒絶反応を起こしてしまった。トイレに駆け込み、昨日飲んだレモンドリンクも、一昨日飲んだ酒も全て出し尽くしてしまった。
吐く物が無くなった後は、支社長が運転する車の後部座席で横たわっていた。高速道路の一定間隔で襲ってくる段差の振動は、空っぽの胃袋を執拗に刺激した。
自宅マンションのエントランス前まで送り届けてもらったボクは、この晒してしまった醜態を、どう償えば良いのか分からなかった。
「ボクは…どうすれば良いですか?」
バックミラー越しに聞いたボクに、ハンドルを握って前を向いまま「今はとにかく休みなさい」とだけ言った彼女は、こちらに顔を向けてくれることは無かった。
自宅に着くと、すぐにインナーと下着だけの姿になって布団に潜り込んだ。
一秒でも早く現実から逃げ出したかった。
あれだけ夜は眠れなかったのに、その時だけは不思議と、アルコールや睡眠導入剤に頼らずに眠ることが出来た。
土曜日の昼前まで、一度も起きることなく眠り続けていた。
昨日帰宅した正確な時間は分からないけれど、丸一日以上眠っていたらしい。
昨日までに起こった出来事を、振り返らずに忘却したくて家中を丁寧に掃除することにした。
キッチン周りや換気扇のフィルターの埃取りまで、この数週間で澱んでしまった空気を晴らすかのように、他の思考を自分に与えないよう黙々と体を動かした。
掃除を終えてから熱めのシャワーを浴びて、体を覆う穢れを落とした。シャンプーと石鹸の香りを纏う自分は、新品になった気がして清々しかった。
昨日空っぽにした胃袋は、まだ食べ物を求めていなかったけれど、冷蔵庫の中に何か無いか漁ることにした。
好奇心というものは、時にそれを上回るダメージを返してくることがある。ボクは冷蔵庫を開けてしまったことを、すぐに後悔した。
『食べる物が無かったこと』にではなく『見てはいけない物』を見てしまったことに。
異動の挨拶回り中に、とあるクライアントから戴いた一本の瓶だった。
『蒸溜所貯蔵 焙煎樽仕込梅酒』
選考を辞退した、あの会社の、ボクにメッセージを残してくれた人間から贈られた、ボクが好きだと知っていて贈ってくれた、嬉しいプレゼントだった物が、そこにはあった。
忘却しようとしていた昨日までの記憶が戻って来てしまう。
咄嗟に冷蔵庫から瓶を排除し、冷凍室から氷カップを取り出した。この贈り物を無かったことにしたかった。
味は殆どしなかったけれど、空腹の体に十四度のアルコールをロックで注ぎ込むことは、想像以上に堪えたようで、そのままソファで寝てしまっていた。
また『テレビと部屋の灯りは点いたまま』だった。
目が覚めた時、テレビ画面には競馬番組が流れていて、グランプリレースの勝利ジョッキーに、花束を渡す女優の姿が映し出されていた。
瞬間、猛烈な吐き気が押し寄せてきて、トイレに駆け込んだ。嬉しいプレゼントだったものは、下水道の彼方に流れていった。
リビングに戻ると競馬番組は終わっていて、バラエティ番組が始まっていた。いかにも日曜日の夕方らしい『家族みんなで観れる』ような番組だった。
テレビを消して昨日空にした瓶を手に取り、マンションの室内ゴミ置き場に向かう。管理人の居ない日曜日のゴミ置き場は、ゴミが乱雑に散らばっていて、同じ建物に住んでいる人達の気遣いの無さに嫌気が差した。綺麗に捨てれば良いのに…そう思いながら、あきビン専用のカゴの中に、割れないよう丁寧に贈り物の亡骸を葬った。
眠れない夜を過ごし、朝を告げるアラームが鳴り響く。
手探りでスマートフォンをタップして、不愉快な音を止める。
今日からまた新しい日常が始まる。
そう思っていたし、そう信じていた。
またボクは、体を起こすことが出来なかった。
窓の外からは、今年も産卵期を迎えてこの街に戻ってきた、ウミネコの鳴き声が聞こえていた。
最初のコメントを投稿しよう!