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#5:Disappointment.
カウンセラーとの面談を終えたボクは、診察室に呼ばれる順番を待っていた。
清潔な院内は、暖色の照明を使用していて『病院』っぽさが無く、落ち着ける雰囲気だった。ボクの他にも、二十代前半位の女性が二人順番を待って座っていた。
(この人も、ボクと同じような症状なのかな…?)
一人じゃないんだなと思うと、少しだけ気分が晴れた。
先に終えたカウンセリングでは、いま出ている症状や、生活習慣、思い当たること等を、ゆっくり丁寧に引き出してくれたけれど、目を見て話を聞きながら、そのまま手元を見ずにノートに文字起こしをしている姿は、相容れない行動のように思うものだった。転職活動についての一件は、何となく話してはいけない気がして伏せておくことにした。
名前を呼ばれ、診察室の扉を三回ノックし、合図を待ち、一度深呼吸をしてから入室する。
マッサージチェアのようにどっしりとした、一人掛けの白いソファに腰をおろす。クリニックの院長は女性で、少しふくよかな体型の『THE オカン』みたいな、優しくて包容力のある雰囲気を持った人だった。
先生は、事前に受けたカウンセリングの内容を、丁寧にボクに確認しながら反芻し、診断結果を告げた。
「あなたは、うつ病です」
何となく、適応障害とかストレス性胃腸炎と言われると思っていたボクに『うつ病』という言葉は、かなりショッキングだった。
でも同時に『腑に落ちた』自分も居て、自然と涙がこぼれてしまった。
「死にたくなったりしていない?」なんてことも聞かれたけれど、そこは冷静だった。
スルピリド、アルプラゾラム、ミルタザピン、デエビゴ、ゾルピデム…聞いたことも無い薬を処方され、一週間後に再度受診することになった。
一か月の休職が必要であるという診断書が出され、会社にそれを提出をして静養することになったボクは、調剤薬局で薬を待つ間、支社長に診断結果を報告しようとチャットに文字を打ち込んでいた。
どう思われるか考えただけでも、文字を打ち込む手が止まりそうだったけれど、診断書に書かれているありのままを伝えることにした。
返事は案外あっさりとしていて、
『ゆっくり静養して体を休めること』
『何かあれば連絡して欲しいこと』
『本社には支社長から報告してくれること』が簡潔にまとめられていた。
休職期間中は、決められた時間帯に薬を飲み、規則正しい生活をするように言われていた。あれだけ敬遠していた睡眠導入剤も、すんなり受け入れることができたし、眠れなかった日々が嘘だったかのように、毎日安心して眠ることができた。アラームをセットしていなくても、朝7時には自然と目が覚めて、起き上がれない不具合が再発することもなかった。
初診から一週間後の診察は、薬の副作用の有無や、生活習慣についてのヒアリングを中心としたもので、次回からは二週間おきに受診することになった。
診断書に書かれた休職期間は一か月だったので、それだけで仕事に復職できるものと思っていた。
休職期間中最後となるクリニック受診日の前日、ボクの体には異変が生じていた。
復職することを考えると、胃が痛み始め、吐き気を催した。クリニックで順番を待つ間も、胃の痛みは消えず、あの日々が戻ってくることを想像すると、気が遠くなりそうだった。
診察室に入り、ソファに浅く腰をおろして背筋を伸ばすと、ヒアリングが開始される。
胃が痛むことは、どこか負けを認めて逃げているような気がして伝えることができなかった。
何時に寝て、何時に起き、日中は映画を観たり漫画を読んで過ごし、家事も問題なくこなせている。そんな話をしただけだったけれど、先生から告げられたのは『休職継続』という結果だった。
肩の力が抜けて、胃の痛みが引いていくのが分かった。
二枚目の診断書が出され、次回受診までの二週間からは『活動記録』をつけること、一日一回はゴミ出しでも良いので『家の外に出る』という目標が課せられた。
年が変わり、休職期間も九か月が経っていたけど、復職のGOサインは未だ出ていなかった。
この頃には傷病手当の申請等、事務的な手続きをしなければならないこともあって、支社長を介さずに本社の人間と直接やり取りをしていた。
休職生活がスタートしてからの半年ほどは、支社長から体調を気遣う連絡が来ていたけれど、ボクの方から連絡することは無く、いつの間にか支社長からも連絡は来なくなっていた。
この三月からは、午前と午後にそれぞれ『外出先で・二時間継続して・何かに集中して取り組む』という新たな目標が追加され、ボクは迷わず図書館に通うことを決めた。休職当初は文字だけの本は、焦点が合わなくて読むことが出来なかったけれど、三か月が過ぎた頃には『まともに』文章を捕えられるようになっていた。
病を患っているけれど、他の病気に罹ることも無く健康的に過ごせていた。ただ、月末の受診前日から起きる胃痛だけは、相変わらずボクの体に待ったをかけているようで、拭いきれない不安を与え続けていた。
久し振りに訪れた『深川図書館』は、ボクにとって想い出の場所だった。
正面入口を入ってすぐ右手にある、児童コーナーの奥に掛けられてあるからくり時計。二階に続くゆったりと左に旋回する階段に、レトロな手すりと照明。階段のちょうど中腹に広がる大きな窓と、左右に並んだステンドグラス。 清澄庭園に隣接していて、緑を近くに感じる立地も良い雰囲気を醸し出していた。
二階のPCコーナーの奥にある開架閲覧席の、一番奥まったところがボクの指定席になった。平日の日中でも、老若男女を問わず多くの人たちが利用していて、席はいつも埋まっていた。
読書を楽しむ人や、勉強をしている人、それぞれが何かに集中している静けさが、ボクには心地良かった。
図書館で過ごすことが日常の一部になった頃、先生から最後の目標を与えられた。
『通勤練習』と呼ばれ、午前中の集中作業を会社の就業開始時刻に間に合うよう、朝の通勤時間帯に電車移動をして、その目的地で実践するというものだった。
どこまで通勤するという想定なのか、ボクの籍は未だあの支社のままだったけれど、先生は復職の条件として異動することが大前提だと言っていた。
決まってもいない異動先を選定することは困難を極めたけれど、あくまでも練習なので、支社までは行かなくとも、支社の最寄り駅まで通うことも候補として挙がった。
片道約二時間、往復の運賃は約二千円、定期券にしても三万円近くになる出費は、傷病手当で生活をしているボクにとっては、正直言って耐えられる額では無かった。
休職中で、会社からの報酬がなくても社会保険料はかかり、当然税金を支払う義務もある。毎月、会社の当座預金の口座に七万円近い金額を納めて、そこから残ったお金で、家賃と通院費、薬代に光熱費、奨学金の返還、食費や日常生活を送る上で最低限必要になる消耗品を購入すると、泣け無しの貯金を切り崩さなければ、到底成立するものでは無かった。
こんな事になるなら、今の家よりも賃料の安いところに引っ越せば良かったと思ったけれど、引越し費用、原状回復にかかる費用、敷金礼金、四か月分すっぽり抜けた給与収入額から、審査の通る物件を探す手間を考えると、その労力に見合う未来が待っているとは思えなかった。
朝の通勤時間帯の電車に乗ることが目的だったので、自宅の最寄り駅から一駅先の水天宮前まで通うことで話は落ち着いた。
五月の最終受診日に復職のGOサインが出されたボクは、久し振りに本社に来ていた。
一階受付のオートフォンで、六階の会議室に案内されエレベーターに乗り込む。
(久し振りにスーツを着たけど、おかしくないかな…?)
ネクタイの結び目を整えながら、目的階を目指した。扉が開くと、人事部長と『あの時の』取締役がボクを出迎えてくれた。
面談内容は、体調と診断書の確認、どんな仕事がしたいか?なんてことも聞かれたけれど、特に思いつかなかった。ましてや、十一か月も休職している自分が『ものを言える』立場ではないことは、弁えていた。
翌日の経営会議で議題にあげて、異動先を決めるということで面談は終了した。
帰り際に社長と邂逅した時は、頭を下げることしか出来なかった。「無理するなよ」という社長の言葉からは、心配と期待と命令というニュアンスを孕んでいるように感じた。
復職初日、ボクは就業開始時刻より一時間早くオフィスに到着していた。
『人材開発室 新卒採用担当係長』これがボクの新しい肩書きで、役職は降格していなかった。
中小零細企業であるこの会社は、新卒採用に苦戦していて、教育部門の部長が兼任することで創設された、二人だけの新しい部署だった。未知の領域に足を踏み入れる不安はあったけれど、チャンスを与えられたことへの使命感の方が勝っていた。
誰よりも早く出社していた『入社十一年目の新人』のボクは、久し振りに会う同僚や上司の一人一人に丁寧に挨拶をし、遅れを取り戻すように仕事に打ち込んだ。あの支社長にも、その日に内線電話で連絡をして、謝罪と感謝の気持ちを伝えることができた。
「わざわざ良かったのに。でもありがとう」
電話越しでも安心している気持ちと、報われたという思いが伝わってくるものだった。
「またあの支社から〝うつ病〟の人が出たらしいよ」
そんな噂話が聞こえてきたのは、復帰して一か月も経たない時だった。
『また』『あの支社』『うつ病』この言葉だけで、全てを理解することが出来た。
「やっぱり、あの人って厳しいのかな」 そんな憶測が飛び交っていた。
『そんな人じゃない』と反論したかったけれど、当事者となっていたボクは、何も言うことは出来なかった。
「うつ病なんて、簡単に診断書が出る」という会話が聞こえた時は、自分もこんな風に噂されていたのだろうか…と考えただけでも、劣等感に苛まれ、当事者の苦しみなんて本人にしか分からないだろうと思いながらも、息を殺して気配を消して過ごすようになっていた。
新しい上司である部長は、業界内では名の知れた人物で、外部での講演活動に積極的に顔を出し、会社に居ることは月の半分もなかった。採用に関しても「ウチみたいな会社に来るのは、公務員試験が全滅だった学生や、他のどこからも内定をもらえていない学生だけだ」 と言ってしまう人だった。
要するに誰でもいいというスタンスで、まるで片手間のように部長の座に君臨していた。
特に意味は無い…忘れていた言葉が甦ってきた。
結局、ボクも誰でもいい内の一人で、今回の復職に伴った異動も、特に意味を持たないもののように思えた。
あの支社から、三人目の『うつ病』患者が出たという話が聞こえてきたのは、年が明けた二月末のことだった。
あの支社長の評価が下がってしまうかもしれない…そのキッカケを作ってしまったのはボクで、悪の権化として見られているようで、いたたまれない感情を抱いていた。
月一度になっていたクリニックの通院日、ボクはベッドから起き上がることが出来なかった。
食欲も無くなっていたし、シャワーを浴びることすら億劫で、人前に出る体を成しているとは言えない状態にまで堕落していた。
受診日は翌週にリスケしたけれど、それまでの間、ボクは会社に出勤することが出来なかった。
三月九日、二度目の休職宣告を受けた。
土曜日だったので、会社への報告は週明けの月曜日に持ち越すことにした。
もう、何も考えたくなかった。
診断書を人事部長に提出し、逃げるように家路についた。
一度目の休職も、復職に伴う異動も、二度目の休職の為に用意された素材で、この日に向けて組み立てられていた、何の意義も持たない出来事だったかのように思えた。
ボクの人生は、ボクの存在は、この世界では意味をなさない不純物だ。
心底嫌になった。
こんな自分が大嫌いだった。
もう消えて、失くなってしまいたかった。
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