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#8:Beginning.
彼との関係性に、ヤキモキしているワタシの気持ちなんて露知らず、彼は『木場公園』にある『噴水広場』に行こうと言ってきた。
カフェから噴水広場に行くルートは、ワタシたちの定番コースになっていて、デート(もはやデートなのか分からなくなっていたけれど)で最後に向かう場所になっていた。
広場からは『木場公園大橋』が見えて、奥に広がる空が綺麗で、ワタシたちのお気に入りスポットだった。 春になると桜が綺麗に咲くので、一緒に観に来る約束もしていたけれど、別れが近づく場所でもあったので、最近は複雑な気持ちで訪れていた。
噴水広場までの道すがら、彼が車道側を歩いていないことに気付いたのは後のことだった。
広場に着くと、暫くの静寂が続いた。基本的に彼は口数が少なくて、感情をあまり面に出さない人だった。たまに何を考えているのか不思議に思うこともあったけれど、ワタシには居心地の良い空間で、そんな彼のことも、彼と一緒に過ごすこの時間も大好きだった。
「あのっ……佐々木さんは…その…好きな人とか居るのかな…」
彼の突拍子もない質問にドキッとしたけれど、呼吸を整えてそれに応える。
「好きな人は…いるよ。鈴宮くんは、好きな人…いるの?」
ちょっと意地悪な感じもしたけれど、聞くチャンスが無かったこれまでのことが嘘だったかのように、探りを入れることに成功した。
「いる…けど…」
(いるのか!けど何だ!)
それが彼女なのか分からないけれど、冷静かつ勢いに任せて畳み掛けた。
「そうなんだ。じゃあ、その人はどんな人なの?」
彼は少し困ったような顔をしていたけれど、言ってしまったものは仕方がなかった。
「一緒にいて凄く楽しくて…安心できて…その…とっても可愛い人…です」
伏し目がちに言う彼の姿は面白かったけれど、他の女の前で『可愛い人』なんて言葉をよく言えたものだなと思った。
「ワタシの好きな人は、優しくて、気遣いができて、たまに何を考えてるか分からない時もあるけど、一緒に居て楽しくて安心できるし、カッコ良い人だよ」
本人を前に、他の人のことを話すように言ってしまったけれど、思っていることを言えてスッキリした。
「そっか…」
彼は一瞬、寂しそうな顔をしたけれど、すぐに顔を上げて、意を決したように話始めた。
「あのっ…僕の好きな人…なんだけど…佐々木さんのことなんだ。でも、ごめん…好きな人がいるなら仕方ない…けど、僕じゃダメかな?その人みたいに優しくなんかないし、気も効かないけど…その…」
(あぁ…ダメだ…この人はやっぱり、こういう人なんだ…)
(ワタシの好きな人は、やっぱり素敵な人だったんだ…)
「待って!」
ワタシの言葉に、彼は今にも泣き出しそうな顔をしていたけれど、ワタシの方が先に泣いてしまっていた。
「ワタシの好きな人は、鈴宮くん。ワタシは、あなたのことが大好きです」
「えっ……うそっ……?」
彼は驚いていたけれど、ワタシの想いは止まらなかった。
思い切って彼に抱きついて、もう一度ちゃんと伝えた。
「太陽くん、大好きだよ」
心音が大きく響く彼の胸の中は、あたたかくて、お日様みたいな匂いがした。
「ぼっ、僕もっ、佐々木さんのことが大好きですっ」
背中をつまんでやった。
「痛っ!」という彼の胸に顔を埋めたまま、おねだりをする。
「名前で呼んでほしい…」
「はっ、はなっ、ちゃんっ!」
声が裏返ってしまった彼の声がおかしくて、笑ってしまう。
顔を見上げると、照れくさそうに笑う彼の姿があった。
「花ちゃん、僕の彼女になってくれませんか?」
ワタシも負けじと、こう応えた。
「太陽くん、ワタシの彼氏になって下さい」
こうしてワタシたちは、恋人同士になった。
ドキドキしながら初めて手を繋いで歩いた帰り道、彼は車道側を歩いていた。さっきは緊張して、気もそぞろだったんだと教えてくれた。ワタシのことを大切にしてくれている、彼の気持ちが嬉しくて愛おしくて、今まで生きてきた中で最高に幸せな想い出になった。
それからは、毎日が楽しくて幸せで、あっという間に時間は過ぎていった。
ワタシは高校を無事に卒業してモデルの道に進み、彼は大学生になった。
キャンパスライフは充実しているみたいで、新しい環境に飛び込んだ彼は、前よりも垢抜けてカッコ良さが増していた。
お互い『初めての恋人』で、誠実な彼は、女性の気配を感じさせないようにしてくれていたし、ワタシを最優先にしてくれていることを、言葉にして伝えてくれていた。大学で過ごす彼の姿も見てみたかったけれど、野暮な気がして、彼が話をしてくれること以上に深掘りすることはしなかった。
モデルの仕事に対しても、気遣いと理解があったけれど、雑誌に載っているワタシを見たくないと言っていることだけは、少しだけ引っかかるものがあった。
「モデルだから好きになった訳じゃない」と言ってくれていたし、モデルの仕事をしていることは、付き合い始めてから伝えたことだった。
「モデルのワタシもワタシなんだけどな……」
つい声に出してしまったことを聞き逃さない人がいた。
「お〜、どうしたのかな人気モデルさん」
罠に獲物が掛かったかのように近づいてきた瞳さんは、感心した風に続けた。
「モデルのワタシもワタシ…深いね〜」
(絶対にからかってる…)
「深い意味なんて無いですって、やめて下さいよー」
そう聞いて、ケタケタ笑う瞳さんの右手薬指には『いかにも』な指輪がはめられていた。
「いや〜、でも最近の花ちゃんは、どんどん良い顔になってるからね〜」
「感心感心」と褒めてくれたけれど、指輪が気になってしまった。
「瞳さん、その指輪とってもステキですね」
「でしょ〜、これ彼女の手作りなんだ〜」
嬉しそうに指輪をながめている瞳さんの新しい恋人は、ジュエリーデザイナーをしていて、撮影現場で出会ったらしい。
「いいなぁ、私の彼なんて何にもくれないよー」
そう言う美咲さんにも最近になって恋人が出来たそうで、バツイチということを知ってからも交際を申し込んでくれた、とても優しい人だという。美咲さんには、本当に幸せになって欲しかったし、その男が裏切ったらワタシと瞳さんで『殴り込みに行く』と言って茶化していた。
嬉しそうに話をする彼女たちの姿を眺めていると、幸せな気持ちになったけれど、ワタシは彼とのことを未だ誰にも話していなかった。
「そういえば花ちゃん、あの話は考えてくれましたか?」
美咲さんに言われるまで、忘れていたこと…いや、考えないようにしていたことを思い出した。
「そうですね…せっかくなので受けてみようと思います」
初めて『CMのオーディション』の話がきていたワタシは、それを受けるかどうか悩んでいた。
受かるとは思っていなかったけれど、もし受かったらどうなるのか考えると、言い表せない不安が覆いかぶさってくるような気持ちになっていた。
珍しく、というか彼が怒っているところを見るのは初めてだった。
CMのオーディションに受かってしまったワタシは、そのことを彼に伝えたところ、お説教を受けることになった。
「何で言ってくれなかったの!?」とか「言ってくれたら応援できたのに」なんて彼らしい言葉だったけれど、ちょっと複雑な気分だった。喜んでくれると思っていた自分を恥じた。
「事後報告になったのは申し訳なかったけど、業界的にも先に言うのは御法度というか、言えない事情もあるのは分かって欲しくて…」
そう言うと、彼も落ち着きを取り戻したようで、すぐに謝ってくれた。
「そっか…ごめん。事情も知らないのにカッとなっちゃって。でもCMなんて凄いね!おめでとう」
本当に心の広い人だなと思って安心したけれど、次に彼から出た言葉は意外なものだった。
「でもそれって、花ちゃんのやりたいことなの?」
やりたいこと…確かに能動的にオーディションを受けた訳ではないけれど、真剣に取り組んだし、決まったという連絡をもらった時は本当に嬉しかった。でも、いざ『やりたいこと』かと言われると答えに困った。
「ワタシを見てオーディションに呼んでくれた訳だし、モデルのお仕事を評価してもらえた結果だから、光栄なことだと思ってるよ」
答えになっていなかった気がしたけれど、彼は浮かない顔をしながらも納得してくれていた。
「それなら良いけど…あんまり無理しないようにね?」
その時は分からなかったけれど、彼はこれからのことを予感していたのか、『無理しないように』をよく口にするようになっていた。
CM撮影は、モデルの仕事とは違って『動き』が付いてくるので、最初のうちは面食らってしまった。
監督の真美さんは、映画監督が本職で、ワタシも彼女がメガホンを取った作品を観たことがあった。ワタシをオーディションへと導いた張本人で、選考の段階でもワタシを推してくれていたらしい。
彼女の作品は、風景を綺麗に映し出しているシーンが印象的で、ジャンルは違うけれど、瞳さんと通ずるものを感じていた。
「本番!ヨーイ……」
カンッとカチンコの音が鳴り、スイッチを入れる。
小高い丘を掛け上がると、街が広がっていて、息が荒くなっている女の子が映し出される。手に持っていた天然水を飲んで、空を見上げる。
そんな単純なシーンだったけれど、朝の6時から始まった撮影は、アフレコを撮り終えた頃には、日付が変わりそうな時間になっていた。
「今日は天気にも恵まれたし、スムーズに終わって良かったよ」
真美さんは、これから編集作業に取り掛かるそうで、その働きっぷりには頭が下がる思いだった。
「ワタシ…大丈夫でしたかね?」
初めてのCM撮影、初めてのセリフ、初めてずくめだった自分の仕事を、どう評価してくれているのか聞いてみたかった。
「100点満点だよー。初々しさがあって、私の想像以上の画が撮れたよ」
屈託のない笑顔で答えてもらえたことに、安堵と達成感を覚えた。
「ところで海ちゃん…」
この『海』という名前は、CMに臨むにあたって決めた、ワタシの芸名だった。由来はもちろん『あの砂浜で観た海』から来ていて、美咲さんも「ひと文字だけど、どこまでも続く青い海みたいで良いね」と、快く事務所に話をつけてくれた。
「来週から新しい映画の撮影が始まるんだけど、海ちゃんも出てみない?」
事務所の車で迎えに来てくれている咲子さんを待つ間に、思いがけないオファーをもらってしまった。
「ありがたいお話なんですけれど、事務所と相談してみないと…」
「そこは何とかするから」と言ってくれたけれど、そもそもオーディションも受けていないし、名もない端役だろうと軽い気持ちで聞いていた。
「ま、良い返事を期待しておくね」
そう言うと、今日撮影したワタシが映る素材を確認しながら、パソコンで編集作業に没頭し始めた。少し狂気じみたその姿に怯みそうになったけれど、真剣に画面に向かう真美さんは、とてもカッコ良く見えた。
「お疲れ様です。失礼します」
「美咲さん、お疲れ様です」
迎えに来てくれた美咲さんも、朝ワタシを送り届けて、一頻り関係者に挨拶をしてから事務所に戻り、瞳さんが撮影してくれた『新しい宣材写真』から、事務所のホームページに載せる写真を選んでプロフィールを更新してくれていた。そんな美咲さんの顔を見たら、ホッと安心した気持ちになった。
「監督、本日はウチの海がお世話になりました」
頭を下げる美咲さんにならって、ワタシも頭を下げた。
「畏まらなくて良いよ。そんなことよりマネージャーさん…」
笑顔だった真美さんの顔が、一瞬で真剣なものに変わる。
「海ちゃんを来週からの撮影に入れたいんだけど、スケジュールってどうなってるのかな?」
さっきワタシにしてくれた話を『事務所』がどう判断するか、値踏みしているような印象を受けた。
「あの…島岡監督。海が何か失礼なことをしましたでしょうか…?」
美咲さんの言った『言葉の意味』が、その時は理解できなかったけれど、失礼とは聞き捨てならなかった。
「そんなことないよ〜。ただ単純にハマりそうな役があるからさ」
「そうですか…」と応える美咲さんは、どこか浮かない顔をしていた。
「改めてスケジュールを確認して、一両日中にはお返事させて頂きます」
「期待して待ってるよ」と言う真美さんに、今日一日の感謝を伝え、スタジオを後にした。
帰りの車を運転している美咲さんは、どこか焦っているような気もしたけれど、疲れと解放感でワタシはそのまま眠ってしまった。
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