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10. 名を呼んで花を願う
結局、日本での一人暮らしにはならなかった。お母さんが早瀬と連絡を取り合っていてくれて、おれは九月から早瀬とあのマンションで暮らし始めた。
まだ夏の暑さは残る。父親は一ヶ月前に出国した。お母さんが今日飛行機に乗って太平洋の向こうの国へ旅立った。
早瀬と二人で空港まで見送った帰り道、歩きながら訊いてみた。
「なんでお母さんのこと名前で呼ぶの?」
「六歳のとき、咲子が働き始めた。俺のためだとわかった。花を贈りたかったが金がなかった。だから代わりに名を呼んだ。呼ぶたび、花が咲けばいいと思った」
なんでもないことのように淡々と話すこの人の心が好きだと思った。
「おれも花の名前がよかった」
笑いながら言った。ほんとうは、この人が呼ぶのならどちらでもよかった。
「楓にも花言葉がある」
「葉なのに? なんていうの?」
「『美しい変化』、『大切な思い出』。おまえの名は俺にとってはずっと花だった。会えずにいたとき、心で呼んだ」
どうしようもなく、泣きたくなった。
どちらも、この人からもらっていた。
心が変わった。思い出がいくつも残った。どちらも、とても大切だった。
それだけじゃなく、名前を大切に呼んでもらえていたことに。
「……泣きそうだ」
「泣いていい」
呟いたおれの頭を、微笑を浮かべて撫でてくれた。
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