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8. 変わる心
それから何度か、その人のマンションに行った。夏休みに入る頃には、知らない部屋にもずいぶんなじんだ。「俺がおまえのところへ会いに行った方がいいのか」と訊かれたけれど、おれはここへ会いにきたかった。アパートとは違う。でもこの場所も好きになっていた。
もう本棚がリビングの奥の畳の部屋にあると知っている。隣の洋室はその人の部屋。アパートのときは布団だったのに、ベッドを置くことにしたらしい。いろいろなことが変わっていく。でも本質は変わらない。
この人の近くにいるのが好きだ。それは前と変わらなかった。
でも、それだけじゃなくなったことに、もう自分で気づいていた。
その人のほうは、おれの気持ちにはぜんぜん気づいていなかった。
六月が過ぎるまで、その人は最初のときと同じような感じだった。昼に訪ねても「さっき起きた」と言う。頭を撫でてくる。食事をとると一度眠ってしまう。ソファで。
月曜から土曜まで仕事らしい。仕事を始めて最初の三ヶ月はずっとそうなのだという。
七月半ばに訪ねたときには、いろいろなことに慣れたみたいだった。朝ごはんは食べたと言ったし、途中で眠ることもなかった。眠っているときの顔を眺めるのが好きだったから、ほんの少しだけ残念に思った。
でも急に頭を撫でてくるのはそのままだった。理由がわからなかったけれど、訊けなかった。もし飼い犬や小さい子どものように思われていたらと考えると、なんだか嫌だった。それなのに撫でられるのはうれしくて、いつも黙ってしまう。
自分の心なのに、思う通りにならない。
七月の末、帰宅した父親から海外への転勤が決まったと言われた。五年か十年は日本に帰らない、この家は引き払う、来月に引っ越すと。お母さんとおれの準備が間に合わなければ、父だけでも先に向こうへ行くと。
頭の後ろのもっと奥が、大きく歪んだような気がした。心情的に気が遠くなった。
あの人がいないところへは行きたくなかった。
父にはお母さんが必要だけど、おれのことはたぶん、そんなに必要じゃない。
日本に残って一人暮らしをしたいと告げた。住むのが小さなアパートになっても、なんとかやっていけると思った。
あの人のように。
お母さんが高校を卒業する頃、あの人が6歳のとき、二人は両親を亡くした。祖父にあたる人の家に身を寄せて、お母さんが結婚するとあの人はおじいさんと二人で暮らした。
あの人が16歳のとき、おじいさんが亡くなった。それからは一人きりで暮らした。
おれはそれを知っていた。
だいじに想っているからあの人はお母さんを名前で呼ぶのだと、おれが気づいたのは、その話を知っていたからだ。
おれは、あの人の近くであの人をだいじにしたかった。おれの心をずっとだいじにしてくれたあの人を好きになっていた。
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