第6話 噂の真相

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第6話 噂の真相

 マリアンヌは泥だらけになってしまったドレスを脱いで、普段着の中から、お客様をお迎えする用の、上品な質の良いドレスを選んだ。 「マリア様、すっごくいい女って感じです。大公殿下もイチコロですね」クロエは親指を立てて、パチリと片目をつむった。 「ありがとう。クロエ。お待たせしちゃ悪いわ。急ぎましょう」マリアンヌはくすりと笑って、客室へ急いだ。  客室のドアの前で、深呼吸してからドアをノックした。  中からトリスタンがドアを開けてくれた。 「大公殿下、お召し物は合いましたでしょうか」こういった不測の事態のために、男性用と女性用の服を、サイズ違いで用意しておいて良かったと、マリアンヌは思った。 「いかがでしょうか?」クリストフはにっこりと笑った。 「……とてもよくお似合いです」マリアンヌはまた、頬が赤くなるのを感じた。この、うっとりとするような笑顔を向けられたら、多くの令嬢が、頬を染めるのだろうなと、マリアンヌは思った。 「お飲み物と軽食を、ご用意しました」エミリーが紅茶やお酒、サンドイッチやお菓子をたくさんテーブルに用意した。 「もてなしに感謝します。こちらがドレスを弁償しなければならない立場なのに、気を遣わせてしまいましたね」クリストフがマリアンヌに言った。 「いいえ、弁償だなんて、お気になさらないでください。お口に合うかどうか分かりませんが、助けていただいたお礼です。どうぞ、召し上がられてください。こちらのオペラがおすすめですよ」これだけでは不十分だろうから、後日、改めて、お礼の品を送ろうとマリアンヌは思った。 「それでは、遠慮なくいただきます」クリストフはオペラをひとくち、口に入れた。「これは……素晴らしい味わいですね。一級品のチョコレートを使用しているのでしょうか?ほろ苦く芳醇で、コーヒーのほのかな香りが、絶妙にマッチしていて、なんとも言い難い——甘いだけのケーキとは違いますね。これは、どちらの洋菓子店のものですか?」 「これは、うちのパティシエが作ったものなのですが、ご挨拶させて頂いても、よろしいですか?」マリアンヌが訊いた。 「是非!こんなに美味しいオペラを食べたのは、初めてですよ。作った人に会ってみたい」クリストフは喜んで言った。 「ヴィンセント、入りなさい」  トリスタンが、ドアの外で待機していた青年を、部屋に招き入れた。  マリアンヌは、紹介ができるかもしれないから、部屋の前で待機しているようにと、ヴィンセントに伝えておいた。 「ヴィンセント、こちらにいらっしゃい」マリアンヌは、ヴィンセントを横に立たせた。「リュクサンブール大公国のクリストフ・ノサック大公殿下よ。ご挨拶して」 「は、初めまして、ヴィンセントと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」ヴィンセントは、マリアンヌ以外の貴族と話したのが初めてで、ドキドキしながら挨拶した。 「君がこのオペラを作ったのかい?」完成された味だったので、ベテランのパティシエが作ったのだろうと思っていたが、予想以上にヴィンセントが若く、まだ20代前半のように見える彼に、クリストフは驚いた。 「は、はい。マリア様とジャンヌ様に教わって、作りました」 「マリアンヌ嬢が教えたのですか?」  貴族の女性が、キッチンに立つことはまずない。クリストフの母も、キッチンに立つどころか、キッチンの場所すら知らないはずだと思っていたクリストフは、マリアンヌがケーキを作れることに、目を丸くした。 「私は基本的なケーキの作り方を教えただけなのです。それを、より美味しくしてみなさいと言ったら、才能を開花させたようです。今度、王都の3番街に、出店する予定ですので、よろしければ、足をお運びください」 「王都に?シュヴァリエ家の事業ですか?」 「いいえ、独立させようと考えています」 「そうか、君が王都に出店するのか」クリストフは怪訝な顔をした。王都の3番街は平民向けの通りだが、質の良い品を取り扱っている店が多い。使用人の給金だけで店舗の契約金が支払えるとは思えない。誰かに騙されているのではないだろうかと思って訊いた。「店舗の契約は、誰を仲介したんだい?」 「マリア様が、手配してくださいました」 「マリアンヌ嬢が?」 「驚きますよね。使用人のために、独立資金を出す雇主がいるなんて」ジャンヌが呆れたように言った。 「ヴィンセントのケーキは、絶対に流行るわ。これは先行投資よ」マリアンヌはムッとして言った。 「そう言いながら、一度も回収したことないですけどね。この子は、孤児を見つけては、家に連れ帰ってきて、あれやこれやと世話を焼いて、才能を開花させるプロなのですよ」 「私には先見の明があるのよ」マリアンヌは得意げに笑った。 「王都では、新進気鋭だと謳われている画家のジョバンニ、彼もここの出身なのですよ」トリスタンが言った。 「ジョバンニの絵は、私も欲しくて描いてもらうよう依頼しましたが、数年待ちだと言われましたよ。あなたが彼を見出したのですね。それは、確かに先見の明がおありだ」 「最近有名になって、忙しくしているみたいですけど、時々会いにきてくれるのです。この邸宅に飾られている絵のほとんどは、彼が私に贈ってくれた絵なのですよ」マリアンヌは室内に飾られている、デルヴォー領の風景画を見ながら自慢げに言った。  身内が褒められて嬉しそうにしているマリアンヌに、クリストフは好感を抱いた。 「素晴らしい絵だ。雄大なデルヴォーの山脈がよく描けています。ですが、どことなく、厳酷な感じもしますね。自然の過酷さでしょうか?」 「あの子には、デルヴォーが過酷だったのでしょう。これは、まだ、あの子がうちに来てすぐの頃に、描いたものです。言葉を発することができないほどに傷ついていて、絵を描かせてみたら、これを描いたのです」  その時のことを、思い出しているような顔のマリアンヌを、クリストフは美しいと感じた。 「ジョバンニやマリアンヌ嬢にとって、この絵は貴重な1枚なのですね——ヴィンセント、君のケーキとっても気に入ったよ。君の店が完成したら、贔屓にさせてもらうよ」  ヴィンセントは幼さの残る顔を、笑顔で弾けさせた。「ありがとうございます!」 「良かったわね、ヴィンセント。頑張るのよ」 「はい!ありがとうございます。マリア様、このご恩は、必ずお返しします」 「別に良いのよ。私はあなたたちが幸せでいてくれたら、それで良いの。家族の幸せを願うのは、おかしなことじゃないでしょう?」 「あなたが、奴隷を買っているという噂があると聞きましたが、それは……」 「根も葉もない、でたらめです。マリアの叔父、シュヴァリエ男爵が言いふらしたのです。息子のベルナールとマリアを結婚させれば、金が手に入ると考えたのです。浅はかなことです」トリスタンは憤慨して言った。 「——実際は孤児を引き取っているのか。では、クロエも?」 「私は孤児ではないんですけど、娼館に売られそうになってるところを、助けてもらったんです。父が酒代欲しさに、娘を二束三文で売ろうとするなんて、酷いですよね。マリア様は、10倍支払うから、娘の前に2度と姿を現すなって言ってくれたんです。だから、私は生涯マリア様にお仕えするって、決めたんです」  これほどに慈悲深い人を、突き飛ばしたジュールには誠心誠意、謝罪をさせないといけないなと、クリストフは思った。 「使用人たちが、マリアンヌ嬢を慕っている理由が分かりました。皆あなたに救われたのですね」 「救っただなんて、大袈裟です。ただ、家族がいない者同士、肩を寄せ合って暮らしても、良いのかなって思っただけです」マリアンヌは照れて顔を赤くした。
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