【卵のこと】

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【卵のこと】

鳥の卵は便利だ。 黄色い綿毛が飛び出してくるのもあれば、目玉焼きにできるものもある。無限に増えていくから、ひとまず供給が崩れることはない。 それから、魚。 漁師が獲ってきた大小様々、色とりどりの魚たちも、大量の卵を破って無限に増えていく。暗いうちから市場に並べられるのを、がんばって早起きしてときどきヒロと見にいくのは楽しみだが、寒くなりだすとそれもめっきり減る。魚売りが通りがかるのを待つか、昼の少しあたたかいうちに買いに行く。 あとは、虫。 虫は食べられないけれど、これもあたたかくなると卵から出てきて一斉に増え出す。里は虫が大嫌いだそうで、家に遊びに来てもヒロの薬草小屋や温室には決して近寄らない。卵から幼虫が出てくる時期には家にすらやって来ない。大事な薬草の天敵になるものもあれば、その天敵を食べてくれるものもあるので、虫というのは一長一短だ。だが花が咲くのは虫のおかげで、特にミツバチはわざわざ飼育して増やしている人もあるくらい貴重な生き物である。 卵というのは、この町の住人が永遠に解明できない謎に包まれた物体である。 トリにもサカナにも虫にもきちんと雌雄があり、卵はメスからしか排出されないことはわかっている。けど、メスが単体で突然卵を生成できるわけではない。卵を作るのはオスの仕事でもあるらしい。 それなら、自分たちはどこからどのようにしてやってきたのだろう。最初からこの姿で、記憶のないどこかから流れ着いてきたけれど、鳥や魚のようにどこかで卵から孵っているのだろうか。それはいったい何の卵かといえば、当然、人の排出した卵である。トリやサカナの卵から人は孵らない。だがこの身体から卵を出すとなれば、あまり大きいモノだと中でしまいそうだから、大きさなら鳥の卵くらいがちょうどいいような気がする。 卵から孵ったばかりの人間は、初めは手の平くらいの小さな赤ん坊なのかもしれない。ちょうどあの黄色い綿毛のような生き物だ。そこから徐々に立派なトサカが生え、ふわふわの黄色い綿毛も白い羽毛になっていくように、人間もどれくらいかかるか分からないけれど、時間をかけて変貌しながら、何倍にも大きく成長していくのだ。 自分も、いつしかヒロの卵を宿す日が来るのかと聞いてみたことがあった。菊が以前、「柏が俺の卵を欲しがってる。」と言っていたからだ。しかしヒロには「そりゃあ変なまじないのデマだ。」と笑いながらあっさり否定された。男と女がどれだけ長く共に暮らしていても、女が卵を宿したという話など聞いたことがないそうだ。 我々はどこからか流れ着いてくる得体の知れぬものである。そしてオスは働き手となり、メスと子供はその流れ着いてきたのを市場で買うものである。すべての住人が例外なくそうやって振り分けられてきた。誰しも、流れ着く前のことなど知らないのだ。覚えてないというよりも、知らない。かつては子供だったのか、初めから大人だったのか、それすらも知らない。目覚めたときのあるがままの自分を受け入れ、ここで与えられた役目を果たすまでだ。だから男は懸命に働き、男の世界を築き上げてきた。でもどうしたって女を愛してしまうから、女のためにも働いてきた。 ヒロには否定されたものの、海はときどき、卵が欲しいと思うことがある。自分とヒロの子供が殻を破ってくることを考えると、幸せな気分になる。いずれ買う子供も自分たちの子供には違いないが、もしも自分の身体で作られた卵から子供が孵ったら、それはもっと特別な存在だと感じられるだろう。 菊も柏も、「まじない」などデマだなんてことは当然わかっている。けれど柏が菊の卵を欲しがる気持ちは、嘘ではないだろう。海には柏の気持ちがよく分かる。彼もふたりだけの特別な存在が欲しいのだ。 そしてヒロも、その気持ちは決して否定しなかった。 お前の身体の中で育った卵なら、その子供の血や肉や骨は、きっとお前と同じものを受け継いでいる。まじないの通りに作ったのなら、俺とも繋がっているかもしれないから、なお一層いい。ふたりで作った子供なのだから、お前と俺が混ざり合った生き物に違いない……と。 鳥の卵は便利だ。作物は育ちにくいから値段も突然高騰するが、卵ならきれいな柄のハンカチサイズの布1枚で、必ず10個は交換できる。 卵は何通りもの調理法があり、同じ卵焼きでも家庭によって味付けは様々だ。目玉焼きの焼き加減だって、人の好みは千差万別。 自分たちも毎日身体の中で卵を作れたら便利なのに、と葉はいつもひそやかに思っている。ついさっき家の前を通りがかった市場からの行商人を捕まえ、小屋から摘んだばかりの卵と焼きたてのパンを買い、久しぶりに柏のために朝ごはんを作っていた。 今朝はかなり冷え込んだのに調子が良くて、思わず鼻歌を口ずさむほど気分が良い。朝だけでもいいから毎日これくらい元気なら、彼のために毎朝大好きな卵を焼いてあげられるのだが、明日の朝のことは明日がやってこないとわからない。 朝は目玉焼きと決まっていて、卵は2個、白身の端はカリカリに焼くが、黄身は固めず卵白も少しだけ生で残しておく。魚の切り身も味付けをしながらソテーして、ヒロに分けてもらった香草を添える。さっき卵と一緒に買った、まだ少しあたたかい小さな丸いパンも2つ皿に置く。そして彼が起きてきたらすぐに白湯を用意する。暑い時期には氷嚢のために用意した氷を入れたキンキンの水だ。 樫や櫻はねぼすけなので起こしに行かないとなかなか起きてこないというが、星は自分ひとりできちんと時間通りに起きられる。葉が眠っていたら、起こさぬよう静かに支度をして出かけて行ってしまう。せめて玄関まで見送るぐらいはしたいのだが、星は決して葉に無理をさせたがらない。 そのせいか星は、朝目覚めたときに台所から卵を焼く音と匂いがすると、寝ぼけていてもすぐに覚醒し、感激で胸がいっぱいになる。大仰なのではない。朝はいつも顔色が悪く、起きても貧血やめまいなどで昼まで満足に動けない葉が、今朝は台所に立てるほど具合が良いということが嬉しいのだ。そして更に、彼の作る目玉焼きの半熟度合いや卵焼きの甘じょっぱさの度合いは、星の好みに完璧に合わせたものを作ってくれる。葉の作る料理の味が自分の好みに変わったのもあるが、ともかく星は、葉の作る卵料理が大好物なのだ。できることなら毎朝食べたい。それが叶わぬからこそ、たまにありつける朝の卵料理というのは、星にとって至高の喜びなのだ。 寝ぐせのついた頭で台所に向かうと、ちょうどフライパンから目玉焼きを皿に乗せている葉が「あ、星くんおはよう。」と天使のような顔で微笑んだ。顔色は依然ふつうの人よりも青白く、天使なども実際には見たことないが、ともかく星の目には彼の笑顔はすべて天使のように映るのだ。 「……おはよう。」 大好きな目玉焼きと、具合の良い葉。寒さなど吹き飛ぶほどに幸せな朝だ。星はその場で葉を抱きしめ、少し冷えてしまった身体をさすった。骨のおうとつばかりだが、いちばんひどかったときよりは身体つきも徐々に回復してきている。 外では違う顔をしているのだろうが、家では朝から甘えてくる星を愛おしく思いつつ、同時に申し訳なさを感じている。いつもはこの身を案じてばかりだから、元気になったときの反動も大きいのだ。だから葉の調子が良い日には、彼は子供のようにまとわりついてくる。 「早く食べないと冷めちゃうよ。」 「うん……。」 「今日は風も強いから、ちゃんとコート着てってね。」 「わかった。」 朝食の匂いと、抱きしめた葉の匂いに包まれる。毎朝こうならいいけれど、これを当たり前と思ってはいけないし、あまり多くを望んではならない。いま与えられた幸せのありがたみだけを噛みしめる。 ……卵のある朝は幸せだ。卵とは、幸せの象徴なのかもしれない。
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