【ある世界のこと】

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【ある世界のこと】

僕らはときどき、眠りの中に違う世界を見る。それを「夢」というそうだ。 まったく見ない人もいるそうだけど、僕のようにときどき見る人もいるし、涼のように頻繁に見る人もいる。目覚めると何の夢か覚えていないことが多いけど、感情だけは残されるから、悲しければ悲しい夢を見たんだな、ということはわかる。 悲しかったり、楽しかったり、ときどき怒りに満ちていたり、夢にはさまざまな世界がある。夢の世界は誰にも解明できない。櫻さんでも分からないという。 僕が覚えている夢は、いつも同じもの。見たことないのに、見たことのある風景が広がっている。知らないのに、知っている誰かといつも一緒にいる。 丘の上まで続くたくさんの家に囲まれた場所、そのはずれにある寂れた小さな広場。朽ちかけた石像のようなものが対になって僕を睨みつけるけど、そこは決して恐ろしい場所ではない。僕はいつもひとりきりで石段に座り、その見知らぬ誰かを待っている。 その人にはいつも必ず会えるわけじゃない。会えない日の方が多いかもしれない。だからこそ会えた瞬間のうれしさは格別で、姿を見た瞬間に世界の色はガラリと変わり、まるで深い穴の底から這い出たかのように、太陽と青空が僕らをまぶしく照らすのだ。 僕にはヒロくんがいるけれど、夢の中の僕はヒロくんを知らない。 世界には僕とその見知らぬ人だけしか居なくて、その人といつも一緒にいたいと思っている。だから会えないと悲しくて、目覚めても悲しい気持ちがしばらく続く。 ……でも、会えた日でもやっぱり少し悲しいんだ。だってその人は、きっとこの世界には居ないから。彼は僕のまぶたの裏側にしかいない。眠らなければ会うことはない。もしも世界のどこかに彼が居たとしても、彼の夢に僕は出てこないかもしれない。 ヒロくんも涼も菊も葉さんも、みんな自分だけの夢がある。僕らは夜だけ別々の世界に暮らしているかのように。 ヒロくんもいろいろな夢を見るそうだけど、目が覚めても、ちゃんとはっきり覚えている夢がある。さまざまな電気の光でいろどられた、往来の絶えない、人で溢れかえった騒々しい夜の街角。 夜空に雲はないけれど、街が明るすぎるせいで星はひとつも見えない。高い建物や、いやに長い列車や、様々な形の乗り物。人々はそれをうまくすり抜けながら徘徊して、まともに歩けぬほどの人混みなのに、ヒロくんだけはひとりぼっちで歩いている。 なぜか数字のことや、これから会う人たちのことをぼんやりと考えているらしいけれど、よく考えると、どこに行こうとしているのかも、誰に会おうとしているのかもわからない。 けれどいつも同じ道を歩き、頭の中で絶えずなにかの計算をしながら、1度も辿りついたことのないどこかへ向かおうとしているそうだ。 涼がよく見るのは、同じ年ごろくらいの子たちと同じ服を着て机に向かい、本を広げて勉強している夢だ。いつも何かを書き込んでいるそうだけど、何を書いているのかはさっぱりわからない。そのあとはみんなと一緒にご飯を食べ、青空の下の大きな庭でボール遊びをし、クタクタになりながらまた同じ部屋で勉強をする。 夢の中の涼にはそれが日常の光景で、顔も知らないみんなが友達なのだという。勉強はつまらないから好きじゃなくて、ずっと晴れた庭で遊んでいたいのに、どこからか間延びした大きな鐘の音が聞こえたら、遊ぶのをやめなくてはならない。鐘の音は勉強が始まる合図なのだ。 その世界では、同じ服を着た彼らと同じように過ごさなければならない決まりがあるから、いつもしぶしぶ机に向かっている。好きなのは、とにかくボール遊び。遊びのルールはわかっていないが、投げたりつかまえたり蹴ったりして、夢中になって追いかけまわしている。 菊がときどき見る夢の中では、なぜか左目が使え、自分で育てている赤ん坊がひとりだけいるそうだ。けれど仕事は子守じゃない。何か他の仕事をしに行くために、菊は毎朝白いシャツに暗い色のジャケットを羽織り、革靴を履いて重いカバンを持ち、毎日同じ長い列車に乗る。ヒロくんの夢に出るのと同じものかもしれないと言っている。でも菊もヒロくんのように、その列車で自分がどこに向かっているのかわからない。早く仕事に行かなくちゃ、という気持ちだけで、いったい何の仕事をするのかもわかっていない。 ときどき反対方向に乗り込んでどうしようと焦るけれど、列車は止まらず、菊をどこにも降ろしてくれない。でもふと気がつけば「605」と「KIKUCHI」という札の貼ってある見慣れたドアの前に立って、見知らぬきれいな女に迎えられ、「おかえりなさい。早かったのね。」といつものセリフを言われる。 その瞬間、見知らぬ人のはずなのになぜかむしょうに懐かしくて、どうにも恋しさが抑えきれなくなり、玄関でその人を強く抱きしめるそうだ。でもその恋しいはずの人の顔を、菊もやっぱり覚えていない。 葉さんは、夢なのか現実なのか一瞬わからなくなるほど、景色や環境はほとんど変わっていないそうだ。身体をわずらい、いつもベッドに寝かされている。でもひとつ違うのは、葉さんも顔の分からないよく知った人たちと暮らしていること。その世界に星さんはいなくて、いつもつきっきりで自分の面倒を見てくれるのは、少し年をとった優しい女の人だという。子供の頃からその女の人と、その人の夫や子供と暮らしている。けれど彼らは他人ではない。みんなが自分のことをいつも気にかけるので、心配させることが心苦しくて、「もう平気だよ。」と夢の中で何度も言っている。 でもときどき真っ白な部屋に移されて、ひとりきりで寝かされるのが寂しくてつらくてたまらない。夜になり真っ白な部屋が暗くなって、孤独に耐えかねてみんなのことを呼ぶけれど、誰もやって来てはくれない。そうして涙をぽろりと流したところで、いつもハッと目が覚める。そういうときはだいたいうなされているから、いつも星さんが不安げな顔でのぞきこんでいるそうだ。 みんなの夢の話を聞いてわかったのは、みんなが共通してその世界に懐かしさを感じているということだ。見たこともない場所や会ったこともない人を知っていて、自分は見知らぬ世界の中で何の疑問も持たずに暮らしている。眠りから覚めればあの光景にはぽっかりと自分の穴が空くはずだけど、夢はいつでも変わらず僕たちを待っている。 そしてこれは僕だけが感じていることかもしれないが、あの世界の僕らは今よりずっといろいろなことを知っていて、あらゆるものが豊かにあって簡単に手に入り、ここではできない難しいことを難なくこなせるのではないだろうか。 それからもうひとつ。あの世界の僕は、自分を男とも女とも思っていない。さびれた広場で待ち合わせをする人は男のように感じるけれど、ふたりのあいだにその線引きはない。それなのに、夢では愛おしいと感じている。ヒロくんには言わないけれど、眠りの世界の僕は、夢で会えるあの人のことが誰よりも好きなのだ。他にも人はいるかもしれないけれど、あそこはまさしく、お互いしか見えていない僕たちだけの世界だ。 でも、中にはつらい夢ばかり見る人もいる。 櫻先生がいつも見るのは、乱暴で傲慢な見知らぬ男に支配され、逆らえば顔を引っぱたかれ、薄暗く荒れた狭い部屋で暮らし、毎日沈んだ気分で料理をしている夢。それは「悪夢」と呼ぶらしい。 その悪夢の中の櫻さんは女で、右手の包丁を何度も「夫」に向けようとしてはためらう。恨めしさと貧しさしかない世界で、できれば2度と見たくない夢なのに、研究に疲れると見てしまうようだ。でも目覚めるたび、里への愛が深まるのだとも言っていた。夢の中の男とは何もかもが正反対の彼女の寝顔を見ると、つらい気持ちもすべて吹き飛ぶのだという。 僕らはなぜ夢を見るのだろう。 夢は僕らに、何を訴えかけているのだろう。 彼らはいったい、誰なのだろう。 ……あの人はなぜ、「海」という僕の名前を知っているのだろう。
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