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夜明け
「ほら、見えるだろ。」
白い息が立ちのぼる寒い夜明け。今日は休日。僕らは堤防に腰かけて、二人羽織のようにヒロくんの大きな上着の中に一緒に包まり、海のかなたに細く広がる朝焼けを見ていた。
厚い雲に覆われた濃紺の空の向こう、水平線に沿って炎のように赤々と燃えているのは、雲を燃やしている太陽。ここにはもうすぐ晴れの日がやってくる。昨日の昼から遠くの空に薄青の「層」が見えはじめたようだ。船を作る人たちが、いつもそれをいちばんに発見する。
「きれい……あとどれくらいでこっちに来る?」
「あと3回も朝が来れば、その次の朝には青空のはずだ。」
「今回はずいぶん長かったね。」
「晴れと曇りが逆転すればいいのにな。毎日洗濯も乾くし、余った土地で農場もやれる。とつぜん神様の気が変わらねえモンかなあ。」
僕には10回目の晴れの日だ。太陽に照らされる時間は大事に使わなくてはならないが、何をしようかと悩むのが楽しくて仕方ない。晴れた日はいつも、涼や里や菊、具合が良ければ星さんも、朝からみんなで集まってたくさんの料理を作り、ヒロくんや樫くんたちが市場で袋いっぱいに買ってきたお酒を開け、暗くなるまで太陽の下で過ごすのだ。暗くなったら家の中から満天の星空を眺めるけれど、あたたかい日なら夜もずっと外にいて、みんなで流れ星を探す。熱く照りつける時期ならこの海までやってきて、泳いだり砂浜を駆け回ったりして、真っ黒く日焼けするまで遊んでいる。
「寒くないか?」
「ぜんぜん寒くない。」
ヒロくんがずっと背中から抱きしめてくれているから、海から吹く冷たい風にもあまり寒さを感じない。晴れの日を思うだけで身体もあたたまる。僕の手はすぐに冷えるのに、ヒロくんの傷だらけの乾いた手はいつも温かい。僕はこの手を決して離さない。
「ねえヒロくん。」
「ん?」
「僕たちは船に乗ってどこに行くの?」
「……船に乗って?」
「本当は知ってるんでしょう。」
果てから果てを旅するさざ波は、彼らを乗せた船の行方を知っている。それと同じように、ここに長く住む者もやがて少しずつ知るようになる。忘れていた記憶を少しずつ思い出すことによって、今まで知らなかったことが、知っていたことに変わっていく。
「僕たちがどこから来たのかも。……どうしてここに暮らしているのかも。」
海と涼と里は、まだ何も思い出していない。だけど夢を見るようになったのは、閉じ込められていた記憶が徐々に漏れ出ているせいだ。しかし全てを思い出すことは決してできない。この世界の住人はみんな、持って生まれた名前を捨て去ったからだ。
「何だ、急にそんなこと。誰かに何か言われたのか?」
「別に……少し気になってただけ。」
初めてそんなことを聞いて、ヒロは戸惑ったかもしれない。なぜ今まで聞かなかったかといえば、ただ何となく答えてくれないような気がしていたからだ。だから、「秘密だ」と言われたらそれでいい。いつか自分で知るときは来るのだから、おとなしくその日を待つだけだ。しかし彼はしばらく考えたのち、海に思わぬことを問いかけてきた。
「……知りたいか?」
「え?」
「俺たちがどこへ連れて行かれるのか。」
「………。」
本当のことを教えてくれるのだろうか。海がこくりとうなずくと、ヒロはその小さな身体を抱く腕の力を強め、何秒かの間を置いてから、潮風のせいか少し掠れた声で言った。
「俺たちはな、また元の場所へ帰るんだ。」
「……元の場所?」
海は海を見つめたまま、小さく首をかしげた。
「俺たちにはみんな、元々暮らしてた場所があるそうだ。」
「元々暮らしてた……?そんなの、何にも覚えてない。」
「名前をつけてもらう前のことさ。なんにも覚えてないに決まってる。みんな気がついたら列に並んでるんだ。お前も"海"という名前をもらってから、この世界で海として始まっただけだ。けど、海になる前にも、お前は居た。海という名前じゃないだろうが、それも間違いなく同じお前だ。」
「よくわかんない。……けど、信じられないな。」
「俺も半信半疑だ。でも、俺たちはいつもどこかでその前の存在を感じてるらしい。」
「僕は感じたことないよ。」
「無意識のことなんだろ。何たってそっくりそのまま前の自分を忘れてんだ、意識なんかできるワケが無え。」
「そっか……でも、そしたら、"ここ"は何の世界なの?」
少し強い海風が吹き、海の髪をなびかせる。ヒロは目にかかった髪を指先で払ってやり、背後からそっと頬を寄せた。
「ここは、終わりを迎えた奴らの世界だ。」
港には寄せて返す波の音が聞こえるだけで、それ以外は世界の終わりのような静寂しか無い。鳥の声も、船の汽笛も、人夫たちの歌声も、何もない。ここには初めから、この海以外何もなかったのかもしれない。
「終わりって、何?」
「何かと言われると難しいな。この世界には、その終わりというものに代わる言葉がない。」
「元の場所にはその言葉があるの?」
「あるはずだ。だけど俺もそれはよく知らない。ただ俺たちには、元の場所と、終わりがあるということだけはわかってる。」
「じゃあ、この世界はなに?」
「……ここも夢の世界みたいなもんだ。俺も昔、親方に同じことを聞いたときにそう言われた。」
「夢?それなら僕たちは、本当はどこにも居ないの?」
「いや、実在してるぞ。お前の目に映るモンは、薬草の1本だって残らずちゃんと存在してる。かつての世界から、ここにやって来ただけだ。」
海は果てしなく見えるが、ただひたすらに広大なだけだ。船が見えなくなるのは消えるからではない。見えぬほど遠くに去っていくだけで、いつか必ず果てに辿りつく。
空を渡る鳥も同じだ。彼らにもまた彼らの目指す果てがあり、船と同じくらい遠くへ去っては、またこの地に帰ってくる。
そして、果てから果てを渡る鳥たちと同じように、寒さと暑さも交互にやってくる。それは雲のせいではなく、寒いのも暑いのも、ちょうどいいあたたかさも強い風でさえも、すべては太陽が作りだしている。雲は雨を孕んでおり、雨がなければ海も池も川も無く、井戸の水も涸れてしまう。
植物にも雨が必要だ。植物の種には水が欠かせない。種はやがて芽となり蕾となり花を咲かせ、役目を終えればまた新たな種を落として枯れていく。あるいは虫に花粉を運ばせて、違う地で新たに花を咲かせる。
虫も鳥のようにあらゆる平原を渡り、卵を産み、そこから孵った幼生たちが成長しては花粉を運び、次から次へと花畑を作り続ける。
卵は便利だが、人の身体では卵は作れない。人の身体からは、鳥や虫や魚を作り出すことは決してできない。
だが卵から孵る魚でも、虫や鳥のように大気の中で暮らすことはできない。水の中に潜り、水辺に近付いた虫を食べたり、海を渡る鳥に食べられたりしている。彼らはとにかくたくさんの卵を作り出すので、陸地よりもずっと広大な海の中に無数に棲んでいる。だから海辺に暮らしている人々が多く口にするのは、鳥やその卵よりも、朝の市場で買ってくる新鮮な魚である。
目で見る前から知っていたことだ。誰にも教えてもらっていないことを、まるで夢の中の自分と同じように知っているときがある。それは「かつての世界」の「かつての自分」が知っていたことなのかもしれない。
だけどきっと、夢の中の自分はもっとたくさん知っている。
終わりと始まりが何であるのか、自分たちはどこから来てどこへ行くのか。
人はなぜ、卵を食すばかりで自分では作り出せないのか。
人はなぜ、魚のように水の中では暮らせないのか。
人はなぜ、虫や鳥のように空を飛べないのか。
人はなぜ、その肉を鳥のように食べることができないのか。
それから、人が卵から孵らないというのなら、人はなぜこの地に現れて、どのように増えていったのだろう。
終わりに代わる言葉が無いように、始まりに代わる言葉も無い。きっと他にあったはずだ。だけど彼らは、もうそれを忘れてしまった。名前すらも持ってこれず、手のひらに書かれた一字だけを、本当の名前に代わる新たな呼び名にして、記号のように判別している。
かつての世界には、すべての答えがあった。ここはまやかしの男の世界。
そもそも男と女とは、いったい何なのだろう。ふたつの動物を分ける条件は、きっと労働力などではない。身体の大きさや頭脳でもない。肌の弱さでもなければ、気性の荒さや口喧嘩の強さでもないし、好む色の傾向でもないし、料理の上手さでもない。
この1文字の呼び名のように、もっと明確な記号があるはずだ。しかし彼らは何の疑いもなく与えられた性を受け入れ、男は自分の女のために働き、女は自分の男を支えながら暮らしている。そこに無理を感じることがなかったから、長い時の中で培われた男と女の境界は揺らぐことなく、出会ったふたりは自然と愛し合い、売られてから船に乗るまで、何の疑いも持たずに夫婦としての生活を営んできたのだ。
しかし、男と女の境い目だけでなく、この愛にまで本来の正しい形式があるとするなら、海には「かつての世界」の答えなどいらない。男と女の本来の線引きは知らずとも、出会ったふたりが愛し合うことに間違いや正解は要らないということも、彼には初めから分かっていたことだ。
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