夜明け

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「……ちゃんと、ヒロくんも僕もここにいるのなら、良かった。」 それさえ確かなら、もういい。そう言ってもぞもぞと体勢を変えると、ヒロの身体に抱きついた。 「寒くなっちゃった。もう帰ろう。」 「……おう。」 「変なこと聞いてごめんね。いつか自分で分かるようになるまで待つよ。」 「別にこの話は……」 「僕には今の世界が本当だから、それでいい。」 「……そっか。」 「晴れたら、何食べたい?」 「お前の作るもんなら、何でも食いたい。腹いっぱい食いたい。」 「そう。……じゃあ、たくさん作るね。」 「……お前はあったけえなあ。」 「ヒロくんの方があったかいよ。」 後頭部を撫でてやり、ひたいとひたいをくっつける。寒い夜明けの、暗い堤防。ふたりの白い息が海風に掻き消されていく。いいかげん立ち上がろうかと思いつつも、そのあたたかさから抜け出せない。 厚い雲のせいで、朝が来てもうす暗いまま。ここは灰色の世界などではなく、深い闇と薄闇を交互に繰り返す、永遠に終わらぬ真夜中の世界なのかもしれない。海や空の果てとは違う。夜の果てには、太陽が気まぐれに顔を出すまでたどりつけない。 ここは、まやかしの男の世界。そのことを海に教えてくれた人がいる。海はそれをずっと胸の内に秘めていたが、ヒロは自分の知っていることを秘密にせず、知りうる限りのことを話してくれた。 髪を撫でていた手をそっと頬に添えて、キスをする。彼の唇のやわらかさもあたたかさも、こうしてちゃんと実在している。自分たちはまやかしではない。愛し愛されながら暮らしている。それだけでいいと思っていたはずだ。 でも海は、言うつもりのなかったことを、とうとう彼に打ち明けることにした。今まで聞かなかったことを今朝になってヒロに聞いたのは、ただの気まぐれでもあるけれど、もうすぐ訪れる晴れの日にまで、蓋をしたまま過ごしていたくはなかったからだ。 ずいぶん長いあいだ、抑え込むようにして閉じ込めていた。それはまやかしの裏側。知らなくても良かったけれど、勝手に溢れ出て、思い出させるようにその姿を現そうとするもの。 くちびるを離すと、海はもう1度ヒロに抱きついて、内緒話のように耳元でささやいた。 「……僕たちはもう、誰かに殺されることも、病気で苦しむことも、事故に遭って死ぬこともない。」 知ってた?と問われると、海の肩越しに海を見つめるヒロの目が、みるみる険しい色に代わっていった。 「黙っててごめんね。……ほんとは柏さんがそう教えてくれたんだ。でもそれ以外のことは何も教えてくれなかった。この世界は、年をとってしわくちゃになる前に死んだ人だけが流れてくるところなんだって、ただそれだけ。柏さんもそれしか知らないから。」 「………。」 「僕たちは、ということも、ということも、ということも、全部忘れて暮らしてた。元の世界がどういうところかも、僕たちは何ていう名前だったのかも、全部。柏さんはそれを知ってる。ずっと昔に思い出したって言ってた。でもそのときからどれだけ長い時間をかけても、もうそれ以上のことは思い出せないし、誰かに言ったらいけないような気がして、黙ってたんだって。……柏さんは次の晴れが終わったら、船に乗るんだ。菊が買い物で留守のあいだに、渡し屋の人が家に来てそう言われたみたい。だからもういいかと思って、僕にだけ知ってることを教えてくれたんだ。」 他の人には言うなよって言われたのに、怒られちゃうな。そう言って笑いながらも、やがて海の表情も、ヒロと同じように涙をこらえた険しい顔に変わっていった。 「終わりと始まりなんて、この世界には最初から無かったんだよ。」 だから僕たちは、それに代わる言葉を知る必要もなかった。 ここは確かに、終わりを迎えた者達の住まう世界だったから。 ひとりぼっちの人混みの中。星の見えない夜空の下。冷たく乾いたアスファルトの上。ネオンサインに照らされていろとりどりに輝くナイフ。般若のような顔をしていたくせに、かたわらで子供のように泣きわめく他人の女。冷えていく身体と、腹から流れる血のあたたかさ。 色を売っては恨みを買う日々。時間は金。言葉は嘘。名前すらも嘘。すべては偽りで、すべては虚構だ。腕を組んで歩いている女の顔は、紙に描かれた名前しか知らないエラいおじさんの肖像。 肉体から感覚が奪われていく。遠巻きに見ているだけの群衆。だが、仕方のないことだ。視界が徐々にせばまりながら、「仕様がねえよな。」と、笑いながら誰にも聞こえぬ声でつぶやく。それがその世界での、最後の言葉。だがそれはただの夢の続きだ。血が噴き出ていた場所だって、古いアザと化している。 「柏さんは船に乗るのは怖くないって言ってた。ヒロくんと同じように、どこに行くか知ってるんだろうね。そのことは教えてくれなかったけど……。でも元の場所のことなんて覚えてないから、僕だったらちょっと怖いな。」 でもね、と続ける。肩越しの互いの顔は、見られないまま。 「……ヒロくんが先に戻って、ひとりになっちゃう方がもっと怖い。元の世界でもまたいつか会えるならいいけど、もう2度と会うことはないかもしれないから。」 何というべきか言葉が出ない。そんなヒロの返事の代わりのように、海の上に吹きすさぶ風の音がごうごうと鳴っている。風のせいでだんだんとシケてきたようで、波の音もだんだんと荒々しくなっていく。 「柏さんは、菊をひとりにすることだけが不安だって言ってた。だから僕たちには、違う良い人が見つかるまで菊のそばにいてあげてほしいって。……ねえ、もう帰ろう。いいかげん寒いでしょう。帰る前に市場に寄って、卵と魚を買ってね。帰ったら、すぐ朝ごはんにするから。」 ふたりの涙を、冷たい海風が運び去っていく。互いにどこまで思い出したのかは、知る必要もないから、聞かない。 ここは前を向いて歩まねばならない荒野だ。嵐の下で迷い苦しみながら築き上げられた、紛うことなき男の世界。だが、彼らはさらに険しい世界を知っている。生きていく厳しさを知っている。死をもって解き放たれたかつての世界には、もう決して縛られてはならない。後ろを振り返って、足を取られてもならない。 今となりにいるただひとりを愛しながら、列車を作り、線路を作り、箱舟のような船を作り、いずれそれに乗り込む日を静かに待つだけ。だが、灰色の雲が途切れることはない。それはここに暮らすすべての者達が抱えていた、痛みと悲しみの色だから。 ふたりには、したいことがまだまだたくさんある。時間が足りないのは、きっと生きていても同じことだ。どの世界においても、神に多くを望んではならない。ときどき気まぐれに与えられる陽の光を喜び、誰かを愛せる事に感謝し、生き物から恵んでもらう少しの卵と肉を食べ、愛する者のため懸命に働く。ここは何も得られずにその生を終えた者達の、若い命と引き換えに与えられた世界。 たとえば、左目だけ美しく輝く灰色の瞳を意地悪な渡し屋に奪われる代わりに、のこしてきた妻と生まれたばかりの娘の幸せを願った菊。彼はそのことをすっかり忘れ去っているけれど、この世界は、その瞳と引き換えにかつての家族にもたらされた安寧と同じだ。 「……帰ったら、飯の前に風呂に入ってあったまるか。」 「うん。」 ようやく立ち上がり、ヒロに手を引かれて歩き出す。海は彼の泣き顔を1度も見たことがない。男は女の前で、ましてや自分の伴侶の前で、涙など決して見せてはならない。 市場へ向かう道すがら。言いたいことは山とあるが、わざわざ言うべきことはほとんどない。俺はお前さえいればそれでいい。何度も伝えてきたその言葉が、海への思いのすべてだ。だが海はまだ自分などよりずっと若く、ヒロには気にならないささいなことも、くよくよと気にしてしまうほど繊細だ。共に暮らしてきてずいぶんたくましくはなったけれど、初めて見たときからずっと、いたいけでか弱い本質は変わっていない。 誰にも愛されず、痛めつけられながら生きてきた者に特有の脆さだ。細くて真っ白な首に痛々しく残る古傷が、そのことを忘れぬようにといつも訴えかけてくる。 「先のことなんか考えなくていい。生きるとか死ぬとかも、今はどうでもいいことだ。別れを怖がるな。俺たちはみんなそれを乗り越えてきたはずだ。それを何度も繰り返して、またいずれどっかで会える。別れが何度あったって、出会う奴は限られてる気がするんだ。だから、怖がらないでいい。」 なだらかな坂を下りながら、ヒロが自分に言い聞かせるように言った。夢の中には決して現れない人。けれど、必ず出会うと決まっていた人。男でも女でも、大人でも子供でも、あるいは人ですらなくてもいい。船が海の果てにたどりつき、いずれ命を与えられたときには、必ずやまた会いたい。 「菊も、涼たちも、里も葉さんたちも、みんな今までどおりだ。この先誰が船に乗ったって、俺たちはずっと変わらない。いつか全員ここを去っても、おんなじ元の世界で生き直すだけだ。全員と会うことはないだろうけど、元の世界なら海も空もひと続きだ。それで充分さ。」 小さな手を強く握る。 「でも俺は、絶対にお前を見つけ出すからな。」 海もまた、強く握り返す。「ありがとう。」とつぶやいて、「漢字の勉強しながら待ってるね。」と言って笑った。 晴れ渡る果てしない空と、青く輝く広大な海。 ここは曇りときどき雨の町。空は毎日つまらぬ灰色で、陰鬱に煙った険しい荒野。どこに行こうとも同じ空が続き、鳥も人も魚も虫も、灰色の向こう側の果てを目指している。 それでも海の目に広がるのは、青い空とまぶしい太陽と、水平線まで宝石のように輝く海。ヒロと出会えたから知ることのできた、真っさらであざやかな美しい世界。 櫻は船を設計し、柏は必要な道具を作り、ヒロは船を作り、樫は船のために線路を作っている。ここはまがうことなき男の世界だ。しかし男は、女がいなければ成り立たない。優しさを持ち寄るべきは、男と女のあいだでだけ。 この世界ではそれだけでいい。 ふたりで生きる日々に、それ以外のことはもういらない。 references: It's A Man's Man's Man's World
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