【旦那様のこと】

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【旦那様のこと】

朝から霧雨が降っていたが、その程度ならかまわずカゴを背負い、洗濯池にいく。池とは呼ぶが、ゆるやかな流れでどこかに続いている大きな川だ。洗い場には簡素な長い屋根が取り付けられているので、多少の雨なら問題ない。 池には先客があった。だいたいの人々は顔見知りだが、今日来ていたのは3軒隣に住む海と仲の良い(りょう)だ。恐らく歳が近くて、話も合う。 「おはよう。」 背後から声をかけると、主人の衣服の汚れをごしごしこすっていた涼が、ひたいの汗をぬぐいながら振り向いた。 「おはよ。今日も湿気が多くて厭んなるな。」 「ここのとこ毎日コレだね。どしゃ降りよりはいいけど。」 となりに並び、バケツの中で池の水と粉せっけんを混ぜ、洗濯板で汚れた部分を洗う。特にひどいところにはブラシも使う。陰鬱な空と同じように、霧雨のせいで水面は白く煙り、厚い雲のようにゆっくりと風向きに沿って流れていた。 「樫くんは元気?」 「元気だよ。」 「最近顔見てないな。」 「休みの日は寝てばっかだからなあ。」 涼の主人は樫といい、彼は貨車の線路作りに従事している。町から町、町から港、港から山……荷物を運搬するためのレールはどんどん拡大させなければならないため、終わりのない仕事だ。 涼は海より少し前にこの町にやってきて、彼もまた売られてすぐに樫に買われ、彼の世話をしながら暮らしていた。 涼は、樫がずっと持っていた穴の空いた硬貨10枚にヒモを通したものと交換されたそうだ。1枚ずつキレイに磨かれた樫の宝物のひとつであった。また穴が空いている硬貨というのは、珍しいから価値がある。他に涼を買いたがっていた客も何人かあったそうだが、そのつながった穴あき硬貨のおかげで、樫は店主からみごと涼を勝ち取ったのだ。 「樫くん毎日疲れてるのに、毎晩からさ。そのせいで休みの日の体力が残らない。」 「元気だねえ。」 「ヒロくんは?」 「ヒロくん?……夜のこと?」 「うん。」 セックスのことを明け透けに話す涼とは対照的に、海には性的なことに対する恥ずかしさがあった。問われて顔を赤くする。ヒロもまた性欲旺盛で、なおかつ体力が有り余っているので、疲れていてもおかまいなしだ。昨晩も食事の前と眠るときに、1回ずつした。 「ヒロくんは……別にふつう。」 「ふつう?」 「うん……。」 耳まで赤くする海の横顔に、涼がクスリと笑った。そして、それ以上は聞かないでおいた。 いつまでたってもウブなところは可愛くて好きだ。町で評判の色男に買われておきながら、海はあまり夫のことを話さない。 ー「おとなりいい?」 「あ、里。」 ふたりのもとに、今度は(さと)がカゴを抱えてやってきた。里は池のすぐそばにある村に住んでいるが、その中のいちばん大きな家に暮らしていた。 「ふたりとも、旦那様はお元気?」 「家では元気だよ。元気すぎて疲れる。」 「ヒロくんも。でも最近はちょっと仕事が大変みたい。」 「今度の船はずいぶん大掛かりでしょう。うちの人も設計に携わってるの。小さいのばかりじゃ町に人が溢れてしまうから、たくさん乗れるのを作りたいって。最近、新しく来る人が増えたからね。」 「そうみたいだね。でもヒロくんも、大きい船の方がやりがいがあるって言ってるよ。」 「樫くんはたまに愚痴ってくるなあ。材料がケタ外れに増えたせいで、それを運搬するためのレールを急ピッチで拡大させなきゃいけなくなったから。仕事ではちょっとへばってるみたい。」 「そうよね。……力仕事に向いてる男がたくさん流れてくればいいけど。」 里が拾われたのは涼よりも更に前で、彼女を買ったのはこの町の建築家である(さくら)という主人だ。痩せぎすで力仕事はできないが、数字を扱うことに関してはズバ抜けた才能を有している。周囲からは先生とか博士と呼ばれている。 海や涼とは対照的に、里は豊満な体つきをしていてペニスも無い。丸い顔にくりくりとした目をして、色の白い愛らしい顔立ちをしていた。彼女が売られたときにはたくさんの引き取りの希望者が列をなしたというが、それらを押しのけ店主にありったけの小銭をたたきつけて買い取ったのは、櫻であった。櫻にもペニスはないが、ついでに里ほどの胸もない。上背があって年もそれほど若くない。だが櫻は持ち前の知識の豊富さで、里を飽きさせない。里もまたそんな櫻のことを愛し、たったひとりの主人として誰よりも慕い、自慢にしていた。この町では、櫻も男である。だから嫁として里を買ったのだ。 3人並んで、ザブザブと洗濯をする。 白く煙るこの池……いや、大河の果てを、3人は知らない。どこかで大海につながるのかもしれないが、あの船に乗って行き着く場所も、実はよく知らない。見たことのない場所へ行くのだということしか、今はわかっていない。 「今日のご飯なんにしよっかなー。」 「うちは昨日さばいたトリニクで何か作るよ」 「私はかぼちゃのパイを焼くの。疲れると甘いものが食べたくなるからって。」 「それ作り方教えて。」 「いいわよ。あとでうちに来る?」 「いくー!」 「僕もいい?」 「もちろん。」 昼から早くも夕飯の支度のことを考える。大事な旦那様のため、今の自分は存在している。けれど何か、もっと違う世界があったかのような、かすかな違和感もある。 その答えには、この大河を泳ぎ切ればたどり着けるのだろうか。
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