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【買われた日のこと】
売りに出されてからすぐにヒロに買われ、家に連れてこられてから9回の晴れ間を経た。つまり海が海としての明確な意識を初めて持ったのは、晴れの日を9回さかのぼった日のことだ。
赤ん坊や子供のころからこの町での暮らしが始まる者もあれば、菊のようにすっかり大人になってから始まる者もある。
流れ着いてくる割合として最も多いのは、すっかり鄙びたように老いてしわくちゃになった人々だ。だがしわくちゃは町で暮らさずに優先的に船に乗せられていくというしきたりがあり、たくさん流れ着くのに町でその姿を見かけることは無い。
しわくちゃは誰かの夫にも嫁にもならず、労働力にもならぬので仕事も任されない。つまり彼らに男や女の役割は与えられず、目覚めてから船に乗る日までの短い日々を静かにじっと過ごしているだけ。
風雨のない温暖な時期の雲の流れのように、穏やかで起伏のない日々。その中でただ自分の乗り込む船を待つだけである。
海は初めて海となった日のことをぼんやりと覚えている。
名前はもうすでに決められていて、売りに出される前にひとりずつ名付け係に呼ばれ、墨で手のひらに名前を書いてもらうのだ。名前はみんな漢字が一文字だけ。どんな人物であろうとも例外はない。
海は右の手のひらに書かれた「海」という文字を何度も見返し、何度も繰り返しつぶやいた。ふとした瞬間に忘れてしまうので、墨が薄くなればすぐに名付け係のもとに行き上から書き直してもらった。きちんと覚えられたのは、4回書き直してもらってからだ。
そうやって名前を得る前までのことを、まったく覚えていない。名前をもらうために列に並んでいた記憶から始まって、それより前にどうやってそこまでたどり着いたのかはとんと分からない。誰に聞いても同じことだ。みんな名前をもらうまで、自分の足跡をまったく知らないのだ。だからこの町に暮らす者は、名付けの日が自分の"始まりの日"だと思っている。
そうして自分という存在がスタートしてから、今度は「売り物」と「労働者」に振り分けられる。それは男と女の選別と同義で、能力の有無で行く先が変わるのだ。肉体作業に適していそうな者は労働者として適当な仕事を割り当てられ、知識や技術や能力を持っている者も労働者に志願する。だが、何もない者はそのまま市場へと流されていく。満足に動けぬような病や障害を負っている者もだ。
海は簡単な読み書きと計算が出来るだけで、これと言った特技などもなく、また見た目も明らかに肉体労働には向かないので、名前を覚えてから市場へと連れてこられた。
市場はひとつの町かと思うほどに広大で、様々なモノの売り買いがなされ賑やかで活気のある場所だった。女を売る店は常時5、6軒が出店していて、1軒につき10人から多くて20人ほどが並べられている。男たちはその前をうろうろ歩きながら品定めをし、気に入った女を買い取っていく。値段は女の人気によって変動するが、店主と交渉してそのときの自分の持ち物と交換するのだ。市場とは、男と女が出会う場所であった。
ー「お弟子さんは何人か抱えてるの?」
店先に居た店主に問われる。
「いや、誰の面倒も見ちゃいない。俺ひとりで暮らしてる。」
ヒロはキセルを吸いながら、売り場の平台の上で思い思いに過ごす女たちを眺めていた。尽きぬ話に夢中になっていたり、仲睦まじくふたりであやとりに興じていたり、じっと膝をかかえて隅でうずくまっていたり、タバコをくわえながらつまらなそうに寝転がっていたりする者もある。
「だから別に、女将みたいなのがほしいんじゃない。そりゃあ世話好きに越したことはねえが……」
「ならフツーの、あんたが可愛がるための嫁だな。」
「……まあそんなとこだ。」
男と同じように、女たちも通りすがる男たちを品定めしている。ヒロはここを訪れたときから、女たちの視線を独占していた。こちらを見てヒソヒソやりながら色めき立っている。
「あんたいい男だから、姉さん方も気が気じゃねえようだな。みんなあんたに買われたがってる。」
店主が冷やかすように笑った。
「俺は一介の工員よ。好かれるのは嬉しいがぜいたくな暮らしはさせてやれねえ。最低限の暮らしだ。服も靴も、そうしょっちゅう取り替えたりはできねえぜ。それでも我慢できる女がいいな。」
「なるほどなあ。そうなると、乳があるのよりも、チンコがついてる奴の方が向いてるかもな。どういうわけか乳があってチンコのない女は欲張りが多くてな。藤の親分が好んで買うような奴らだ。人の世話に長けてるから子供や弟子の多い家には向いてるが、あいつらはそのぶん見返りも多く求める。」
「そりゃあ見返りはほしいだろう。いつも家のことをさせられてんだ。親方んちは忙しいんだぜ。」
「まあそうだけどね。でも新しい服や靴を次々ねだらないのがいいなら、チンコがついててなおかつ気弱なのにしときなよ。そういうのは文句を言わねえからな。あんまり頭が良くなくて、口ゲンカも出来ねえのが特にいいだろう。」
「ずいぶんな言い様だ。けど俺も口は達者じゃねえし、気も小せえ方だ。おんなじような奴なら、ケンカもなくていいかもな。」
そう言って平台の女たちを眺めるフリをしつつも、ひとりだけずっと気になっている女がいた。首に包帯を巻き、うっすら血がにじんでいる。痩せているせいで纏っている白い着物が大きく見え、なんだか寒そうだ。皆がこちらをチラチラ見やる中、その子は平台の隅に置かれた小さなテーブルにじっと視線を落とし、ヒロには一瞥もくれなかった。よく見ると薄い冊子のようなものを眺めている。
「あの子は?」
ヒロが指差した方を店主が見ると、「ああ。」と薄ら笑いを浮かべた。
「あれは今日から売り出しにかかった子だ。なんにも出来ないよ。」
「一所懸命、何かを読んでいるらしい。」
「漢字の勉強させてんだ。どんな育ち方をしたんだか、本もまともに読んだことがないそうでね。自分の名前の漢字を覚えんのに精いっぱい。」
「ほう。名前は?」
「海だ。」
「うみ……。」
「幸薄そうだが顔立ちは悪かない。首の血も……しばらくすりゃあ止まるだろう。ちっとばかし鬱いでんのか、あんまし人と関わろうとしないようだが、受け答えはそれなりにちゃんと出来る。ただ、旦那にはもっといい女が向いてると思うがね。」
「海に買い手はつきそうかい?」
「何人か興味を示して、他も見てから考えるっつって保留にしてるのがいるよ。」
「ふうん……。ちなみに、競るとなるとどんくらい……」
「なんだ、旦那もアレが欲しいのかい?」
店主は不思議そうに唇を引きつらせて笑いながら帳簿をくくり、「銭なら状態のいい磨かれたのが13枚、ってのが今いちばん好条件だな。」と言った。
「それを上回るとなると……」
「銭以外なら……そうだなあ。あんた何持ってる?」
店主に問われるとヒロは麻袋を探り、中から磨かれた金属片を2枚と、1束の薬草、四角い缶の中に入れられた工業用の油を取り出した。
「この葉っぱは何だい?」
「これは薬草だ。不眠にはうってつけ。あと、勃ちが悪くて悩んでる奴にも。」
「ほう?」
「精製して煙を吸うんだ。心身の深い安寧に効果がある。人の欲求に作用するからな。ついでに腹も減っちまうのがちょっとした副作用だ。」
それから「吸い過ぎるとクセになるから気をつけろ」と注意をして、唾をつけていた客たちが戻らぬうちに、ヒロはあっさり店主から海を買い取った。
ヒモで連なったピカピカの小銭ほどとはいかないが、薬草もそれなりに稀少性が高い。なぜなら栽培の知識や環境を持つものがほとんど無いからである。
店主は不眠症なのか性的に難があるのかどちらかは分からぬが、効能を話した瞬間に目の色を変えたのを、ヒロは見逃さなかった。
そして品物を受け取った店主が「海、この旦那がおまえをご所望だ。」と呼ぶと、他の女たちからどよめきが起こり、海は羨望や嫉妬の眼差しにグサグサと射抜かれた。頭も悪く、抱き心地も悪そうな痩せっぽちの身体で、男たちに愛想を振りまくこともせずじっと漢字の勉強をしていただけなのに、いったい何故?女たちと同様に店主すらも首をひねっていた。だがそれでも何人か惹きつけられている男はあったのだ。きっと特定の男にしか見えぬ、この子なりの魅力があるのだろう。
「旦那、まだ話してもないのに、ホントにこの子でいいんだね?それとも少し様子を見てからにするかい?他の女だって、まだ全然見てないだろう。」
「いいんだ。……海、よろしくな。俺はヒロだ。漢字は……」
海の持っていた漢字の練習帖を取り上げ、パラパラとめくる。そして途中のページにあったルビの振ってある例文をかざし、「この字だ。」と言って指で指し示した。
『晴れ渡る果てしない空と、青く輝く広大な海』という例文の、『広』という文字。簡単な漢字なので、海はすぐに覚えられそうだと安堵した。それに、広大な海……広い海。ふたりの名前は例文になるほど相性が良いようだ。
目も合っていないのに自分を買い付けた男を見上げ、きょとんとしていた海の顔には徐々に微笑みが浮かんできた。
「ほら、礼を言わんか。」
店主に小突かれるとハッとして、海はすぐに腰を折って頭を下げた。
「あ……ありがとうございます。僕なんかのこと……」
買ってくれて、という前に頭にポンと手を置かれた。そしてヒロという男は突然、「ところでお前、虫は平気か?」と聞いてきた。
「……虫?」
「あったかい時期になるとよ、どっからか虫が入ってきて、俺の育ててる草に卵を産みつけやがる。ケムシとかゴマみてえな虫とかいろいろだ。」
「…………。」
「家に来たら、お前には薬草の世話を任せたい。害虫駆除は特に大事な仕事だ。……あと、悪いがあんま贅沢はさせてやれねえ。うちには暖炉もあるし、大きくはないがベッドもある。だがなんせ俺はただの人夫でな、毎日のメシは保証するが、いつでも好きなだけ好きなものを食わせてやるということはできない。おまえの思うようないい暮らしには遠く及ばないだろう。」
頭に置かれた手で頬を撫でられ、やがて首の包帯に触れた。海はふるふると被りを振って、「これからよろしくお願いします。薬草のお世話もがんばります。」と小さな声で言った。
「良かったなあ、こんないい旦那に買ってもらえて。きちんと言うこと聞いて、今からがんばっていい嫁になるんだぞ。その教本はお前にやるから、漢字も毎日ちゃんと勉強しろよ。」
「はい。」
店主はそのときようやく、海の瞳に光が宿るのを見た。たった今出会ったばかりの男に買われるというのに、不安を感じている様子がまるでない。事の重大さを理解していないのか、あるいは……
あるいは、互いに一目惚れをしたのかもしれない。男は一目惚れで買っていく者も多いが、買われた女と相互に惚れ合うということは稀だ。
「俺の家はここから少し離れてるが、途中で列車が荷物の積み下ろしのために停まる場所がある。運良くそれに乗り込めりゃすぐに着く。その代わり途中で飛び降りるからな。」
達者でな、と店主に見送られ、ふたりは市場をあとにした。
ヒロはこの市場に日用品や食料を買いに来るたびついでに嫁も探しに来ていたが、今日の出会いは落雷にあったのと同じように思えた。今までもそれなりに目星をつけたりはしていたものの、やっぱり今日はいいや、と諦めて帰るのを何度繰り返したかわからない。
だが海を見た瞬間の胸のざわめきはこれまでと格段に違った。まさしく電流が身体を駆け巡り、心臓が鼓動を速め、後光がさすかのように海しか見えなくなった。もしいつものように、「今日もいいや」とここをあとにしたら、きっと今晩眠れぬほどの後悔にさいなまれる。この子を決して逃してはならないと、もうひとりの自分が強く訴えてきた。
ー「うわあ……」
市場を出てゆるやかな丘を登り、しばらくしてから後ろを振り返ると、灰色の空の下には自分が売られてきたあの大きな市場が広がり、遠くの海に向かってたくさんの家々が並んだ町並みを見ることができた。ヒロの家は丘の上の町にあるというが、職場は港の近くなので、毎朝この丘を下ってあの海の方まで出かけるのだという。
「晴れてる日なら、空も海も青くて綺麗だぞ。まだしばらくは見れないだろうけどな。」
「晴れてる日……」
「ここは曇り時々雨の町だ。毎日毎日灰色で、霧雨なんてしょっちゅうだし、あったかくなりだすと大雨も降る。強い風が吹き出すと一転して空気も乾くが、凍えるほど寒くなる。俺はとっくに慣れたが、天候には恵まれないところだ。けど、どこに行こうとも同じことだ。」
それから丘を登りきり、しばらく貨物の積み下ろし場に腰かけていると、運良く遠くから茶色い箱型の列車がゴロゴロと線路を鳴らしてやってきた。
ヒロは顔なじみの運転士に海を紹介し、薬草で作ったという「シップ」を運賃代わりに彼に手渡した。そしてたくさんの荷物を下ろし、またあらたな荷物を積んだ列車はふたりを乗せ、再び重々しい音を立てて走り出した。丘の上の住宅地に沿って走り、ヒロの家の近くにくると、列車は止まらぬが少しずつスピードを落としてくれ、海はヒロに抱きかかえられて列車から飛び降りた。飛び降りれるようになれば、シップ1枚でいつでもこの列車を使える。少し怖いが、何度も乗って慣れるしかない。
降り立ったのは長屋の多い地区だったが、ヒロの家は長屋の群れを抜けた先にある、平屋の小さな戸建てであった。長屋のように行儀良く並んではないが、周りにも似たような形の家々が点在し、一帯の人々は皆顔見知りだという。
「疲れたろ。今日はゆっくりしていてくれ。見たことのないものばかりだろうが、暮らしていくうちにいろんなことを知っていく。」
部屋に入るとまた抱き上げられて、海はそのままテーブルに乗せられた。眼前でまじまじと顔を見つめられ、また頬を優しく撫でられる。だから海も同じように頬を撫でると、ヒロは少し目を開いて驚いたようだが、テーブルに乗せたままの海の身体をそっと抱きしめた。
それから9回の晴れ間を経ても、この先何度晴れ間が巡ってこようとも、海はこのときの温もりと高揚を決して忘れない。名前をつけられたことより、彼の優しさに触れて、「海」としての自分が始まったように思える。
市場で買われた日のこと。海が始まり、この町での暮らしが始まり、そしてふたりが始まった、決して褪せることのない大切な日である。
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