【傷病のこと】

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【傷病のこと】

慣れているので不便は無いそうだが、眼帯に隠された菊の左目は一切機能していない。たまに世話をしている赤ん坊や子供に眼帯を引っ張られるらしく、病んだ左目を目の当たりにして、平気な子もいればおびえて泣き出す子もいるという。 全員が全員というわけではないが、とにかく町には障害や目立つ怪我を負った者が多い。菊は眼帯だが、近所には目だけを出して顔全体に包帯を巻いている者もある。四肢のどれかが欠損している者もそれほど珍しくない。また目に見えぬ怪我はなくとも、身体が弱くて走ることもままならなかったり、腹に傷を縫合したらしき痕が残された者もある。 海は名前をつけられる列に並んでいたときから、首の切り傷から流れる血で白い着物を赤く汚していた。その姿は売り物にすらならないほどひどかったが、包帯を巻き着物をとりかえて、出血がおさまってきたからどうにか売り場に出せたのだ。 今はもう包帯はいらない。痛々しい傷痕は残るが、薄くなってきたしもう出血もない。だが買われたばかりの頃は、まだときおり傷口が開いてしまい、そのたび子供のように泣いてヒロを困らせた。痛くはないのだが、苦しいのだ。血を見ると不穏なものがこみ上げて、不安でたまらなくなる。真夜中でも早朝でも、ふとしたときに出血をする。そのたびヒロが止血してくれ、大丈夫だと何度も言って、泣き止むまで背をさすりながら抱いていてくれた。 「見ろ、俺だって昔はよくここから血をだらだら流してた。けど今はこのとおり、もうすっかり閉じきった。」 買われた日の翌日に海が泣いていると、ヒロが自分の服をたくし上げて、腹にある変色した傷痕を見せてくれた。指先で触れると、そこだけ皮膚の質感が違った。しかし確かに、ずいぶん古びた傷のようであった。 「俺は身体がでかいから労働者になったが、この傷で満足に動けなけりゃ、市場で売られてたかもな。……いいか、傷口や血を恐れるな。恐れているといつまでも良くならない。俺は気にせず船の仕事に没頭していたら、いつしかこんな古傷と化していた。気にしねえことが肝心だ。血ぐらいどうってことない。」 そう言われても、しばらくは怖かった。読み書きや計算の勉強をしているときには夢中になって怪我を忘れられるけれど、留守番のあいだや洗濯池でひとりぼっちのとき、ふと鏡や水面をのぞいたときに包帯が赤く滲むのが見えると、とたんに強烈な不安と恐怖に襲われるのだ。そうなると、切っていた夕飯の材料も洗っている途中の洗濯物も何もかもほっぽり捨てて、海は近所の友達の家に走った。 いちばん多いのは涼の家だが、彼が買い物などで不在のときには、(よう)の家へ走る。 葉は肌が青白く、海よりも痩せて骨ばった姿をしている病身の女だ。身体が弱くあまり動き回ることができないので、彼の主人である(ほし)の言いつけでベッドに臥せっていることが多く、訪ねても眠っていて出ないときもある。だが、はかなげな葉はいつも優しくて笑顔を絶やさず、どんな話も楽しそうに聞いてくれる。だから暇をもてあました人が、元気なときの葉と話をしに、よくこの家を訪れるのだ。 その日も朝から体調が思わしくなかったが、昼をまたいでから庭を少し歩けるほどに回復していた。すると涙のあとを頬にいくすじも作って、血の滲んだ包帯を手で押さえながら海が門の外にやって来たので、葉はいつものように「入りなさい。」と彼を招き入れた。心配性の星は、葉のために医療品となりそうなものを市場で見つけてはいくつも買い込んでくる。だから彼の家にはガーゼも包帯も常に揃っているのだが、当人である葉がそれらを必要とすることがないので、たくさん余っているのだ。 「ほら、これでもう大丈夫。」 新しいガーゼをあてられ、その上から真っ白な包帯を巻き直してもらう。海は治療をしてもらいに来たわけじゃないが、葉は家にあるそれらをいつも海に使ってくれた。海だけじゃなく、この家にやって来るあらゆる怪我人の傷の手当てをしている。ひくひくと小さくしゃくりあげていた海も、優しくておだやかな葉の姿を見て安心し、気がつけば出血とともに苦しさも消えていた。ひやりと冷たい葉の指先も、興奮して熱くなっていた頬に添えられると、心地よかった。 葉の体調は天候でも大きく左右し、肌寒くて雨の降り続くが最悪なのだそうだ。この家にやってくる前も、身体がほとんど動かず市場で売ることはできないので、普段はそういう重い病状の者を集めた白い部屋で眠らされ、体調が良くなってから少しの時間だけ店先に並べられる、というのを繰り返していた。 彼らには値がつけられない。つまり男たちは無償でその病弱な女たちを引き取っていき、家に住まわせるのだ。なぜほとんど使い物にならない彼らを引き取るかといえば、それは純粋な奉仕や貢献や博愛の気持ちに依るものであるそうだ。行き場のない者の助けになろうという善意を持った稀有な男たちが、彼らを選び、家に連れて帰る。 だが星は違った。仕事もそれなりに忙しく、身の回りの世話を任せられる女を探しに市場を訪れ、朝から何件かの店を熱心に巡っていた。それなのに、葉を選んだのだ。店から店への道すがら、偶然ある店先に座っていた葉を見かけ、目が合うと青白い顔でにこりと微笑みかけられた。ただそれだけだ。その笑顔の優しさに、光へ向かう羽虫のごとく吸い寄せられ、彼を引き取れば面倒が増えるだけだとわかっていたのに、抗えない引力に引っ張られ取り込まれたのだ。 だが葉は星がこの市場を訪れていた理由を知ると、「僕はあなたの元にはいけません。」と言って辞退した。自分では健康な嫁の役割を果たすことはできず、彼の足手まといにしかならないからだ。今はこうして座って笑うこともできるが、ひどいときには連日寝たきりのときもあるし、さらにひどいときには両の手のひらいっぱいに血を吐くこともある。料理も洗濯も掃除も、毎日はしてあげられない。あなたの役に立てないどころか、迷惑にしかならない。だから僕はあなたとは暮らせない、と言った。 それなのに、星はあきらめなかった。 その日は肩を落として帰ったが、それから何度も店を訪れた。会えない日には手紙を書いて、会える日にはずっと葉のかたわらに居座った。やがて熱心な彼に根負けして、葉が半ば折れる形で、きっといつかこの店に返却されるだろうと思いながらこの家にやって来たのだ。 あの日から、もう何度晴れ間を経たか数え切れない。1日中熱にうなされていても、洗面器に血を吐いても、話せない日が何日続いても、星はずっと彼をこの家に置き、忙しいのにこの身をいちばんに考えていてくれる。 ……すると、どういうことだろう。 いつからか葉は血を吐くことがなくなり、身体はだるくても1日中臥せっているということもなくなった。料理は毎日作れるし、体調がいい日には重いカゴを背負って洗濯池にも行く。彼とふたりきりで暮らし、彼のためになりたいと思ってできることを夢中で片付けていると、自分が重い病体であることをときどききれいに忘れられるのだ。 そしてこの町は、そうやって暮らしているものばかりであった。みんなどこかに傷があって、自分のように病弱な嫁もあちこちに居る。自分だけではないのだと思うと、恐怖は日ごとに薄れていった。恐れが無くなると、肉体にもかつてないほどの力が沸き起こってくる。だから葉は、今や自分の病などもろともせず、星とふたりで穏やかに暮らしている。 ときには、海のようにはずの傷に怯える者をなぐさめ、癒している。 そう、本当はもう、自分たちは傷や病に苦しめられてなどいない。 から……いつも得体の知れぬ恐怖におびえているから、いつまでも治らないのだ。 けれど誰しも、身に覚えのない病や傷に初めは怯えている。仕方のないことだ。葉も最初は毎日、怖くて苦しくてつらかった。星に買われてから迎えた初めての晴れの日にも、心はいつもの空のように曇っていた。激しい雨が降り続ける日には、星が眠ってから毎晩そのとなりで声を押し殺して泣いていた。どうして悲しいのかと言えば、このまま病状が悪化すれば、いずれ自分は目も耳も聞こえなくなり、やがて真っ暗闇に放り込まれてしまうと思ったからだ。それはすなわち、この世界との別れである。 毎日うんざりするようなつまらぬ灰色の空の下、ぐるぐると廻る同じような日々、不自由な身体で絶え間なく苦痛を強いられているのに、その全てがなくなることが恐ろしかった。 全てがなくなったら、自分の行き着く場所はどこにもないだろう。なくなったらもう、それでおしまい。星にもきっと会うことはない。真っ暗闇の中で、永遠にひとりぼっちのまま。なぜだかそうなるような気がしてならなかった。だから毎日、怖かったのだ。 「ヒロくんにも、気にしないことがいちばんだって言われた。……でも僕はそんなに強くない。」 良い香りのするあたたかい茶をいれてもらい、海はようやく落ち着きを取り戻した。 「首が赤くなってると、頭が真っ白になる。」 「はは、なんかおもしろい、それ。」 「おもしろくないよ。僕は毎日悩んでるんだから。」 「ごめん。……でもどれだけ血が出ても、君は毎日ごはんも作れるし、買い物にも洗濯にも行けるだろ。血なんてホントは大したことじゃない。だから安心しなさい。」 「………。」 「僕だって洗面器いっぱいに血を吐いたことがある。3回やった。でも無事だった。3回目を乗り越えたときに、何となく慣れたのもあって、昔みたいに怯えたりはしなかった。……それで星くんにも言われたとおり、苦しみなんか怖くもなんともないと毎日自分に暗示をかけていたら、いつの間にかあの絶望的な状態を脱してた。ヒロさんも同じことを言ってるんだ。気にしないということは、怖がらないということさ。」 「葉さんは強いんだ。身体は弱くても、心が誰よりも強い。……僕がそんなメにあったりしたら……考えるだけで耐えられない。」 「いざこうなってみると、変に強くなるものだ。ちょっとした怪我とか具合の悪さなんて、麻痺しちゃってもう全然怖くない。……気にしないことは怖がらないことと言ったが、怖がらないということは、慣れることだ。空の灰色とおんなじ。首の赤いのにもやがてうんざりするときがくる。そうなるともう怖くなくなる。怖がらなくなると、だんだん忘れていくんだ。たまに思い出しても、きっとその頃には開くことのない古傷になってるはずだ。」 葉に言われたことを何度も頭の中で反芻しながら中断していた夕食を作り、その日の晩、食事をしながらヒロに葉の言葉を話して聞かせた。ヒロよりも少し前からこの町に暮らしていた葉を、彼もずっと昔から慕っている。 「葉さんの言うことは、俺の言うことと同じくらい信用しておけ。あの人からはいろんなことを教わった。傷のことでお前に言ったことも、実は俺がむかし葉さんに言われたことだ。そんなものどうってことない、仕事に集中していればいずれ傷のことなんか忘れる、ってな。」 「なんだ、そうだったの。」 「涼もお前が来る少し前に頭の包帯をはずしたんだ。お前の首のようにときどきツーっと血を流しては、お前とおんなじようにピーピー泣いてたんだぜ。だが今はもうなんともない。葉さんの言ったことを、樫が涼に話して聞かせたからだ。」 「そういえば、涼が言ってたなあ。」 「里もなぜか異様に水を怖がって洗濯にも行けなかったが、あいつは持ち前の強さで克服したしな。お前を買ったとこの店主が言ってたが、乳のある奴は順応性の高いのが多いらしい。きっと慣れるしかないから無理やり慣れたんだ。」 「里も櫻先生も、怖いものなんてたぶん何もないよ。ふたりとも優しいけど、僕や涼よりずっと気が強いもん。」 「ああ、顔だけなら大人しそうでかわいいくせに、あいつらおっかねえよな。里のつくる菓子は美味いが、あんなに気の強い嫁じゃあ俺の手に負えねえ。櫻みたいに豪胆な奴じゃなけりゃ扱いきれん。」 そう言うと、ふたりはクスクス笑い合った。 「包帯がはずれるようになったら、新しい服をたくさん買ってやる。洗濯じゃ血はきれいに落ちねえもんなあ。」 「うん……ごめんね。」 「いいんだ。それに洋裁も教わってるんだろ。布キレならいくらでも買えるぜ。それくらいの甲斐性はある。」 「ありがとう。ヒロくんの服も、たくさん作ってあげるからね。」 その翌日から海は、傷のことを考える暇もないほどたくさんの勉強をし、疲れてクタクタになって眠る日々を意識的に送るようにした。たまに包帯が赤く染まることがあっても、もう友達の家には駆け込まず、家事を中断せずにどうにか傷のことを振り払った。ひんぱんに鏡を見ないようにもした。 すると、最初はうまくいかなかったが、やがて本当に慣れる日が訪れた。「めんどくさいなあ」と思いながら包帯を自分で取り替えているときに、そのことに気がついたのだ。首の傷は怖いものでなく、めんどくさいものに変わっていた。そうなるともう怯えることは一切なくなり、いつしか包帯がまったく汚れなくなり、そして今、首の傷はヒロの腹と同じようにすっかり古い痕と化していた。 菊の左目が治らぬのと同じで、傷痕が完全に消えることはない。しかし傷病人が溢れかえったこの町で、海にとってもうこの古傷は、取るに足らないつまらぬ灰色の空と同じものになったのだ。
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