【情のこと】

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苦い顔をして、声をひそめながら明かした。だがそれを聞くなり綾は、フッと吹き出して笑みを浮かべた。 「綾、お前おもしろがってるのか。」 「いやあ……すみません。でも親方、はっきり言っときますが、そりゃあ仕方のないことです。ひとつ屋根の下に、たくさんの男と女が暮らしてる。……どうしようもない。」 「気持ちはわかるから俺だって目をつぶってるつもりだ。長いあいだそれに関しては沈黙を貫いてきた。だがときどき、誰のおかげで暮らしが成り立ってるのかと問い詰めたい衝動に駆られる。」 「そんなら全部の女と夫婦の縁を切って、家政婦にしておやりなさい。浮気心を持たずあなただけを愛してくれる者だけを嫁にするのです。その方が互いに幸せですよ。男と女の情というのには抗えませんから。」 「あれだけ服や靴を買ってやり、美味いものを食わせてやっても、惚れた男の魔力には勝てないということか。」 「そういうことです。でもやっぱり、たくさんいるのが悪いんです。……あなただって奥さん方ひとりひとりに平等の愛を注いでるわけじゃないでしよう。かならず優劣があるはずだ。そういうのを感じるから、夫よりも愛してくれる男によろめくのです。」 「うむ…………。」 「私は家政婦も弟子たちもみな平等に面倒を見ているつもりですが、愛しているのは妻だけです。それにうちだって、家政婦たちに男どもの世話を任せてますから当然双方に情が生まれることもあって、いい仲になった者たちは夫婦になりうちを出ていきます。私はそれも自然なこととして受け入れています。仕事さえしてくれれば口出しすることはない。」 「お前の嫁さんは果報者だ。俺だってあんたと……」 「まだ言いますか。まったく懲りない人だ。そんなんだからダメなんですよ。」 綾が眉根を寄せ、ため息をついた。見た目こそ好みだが、妻たちと綾はやはり大いに違う。妻たちはこんなふうにズケズケとモノを言い、率直な意見を聞かせてくれることはほとんどない。自分の前では貞淑に振る舞うようにさせたせいだ。水面下では醜い争いを繰り広げていても、旦那である自分にはしとやかで優しい仮の姿しか見せないのだ。 「厳しい男の世界に生きていても、女に対する真の愛情を見失ってはいけません。私たちは女がいなければ成り立たない。男だけでは、この世界はただひたすらに荒野だ。守る者や情を分かち合う者がなくては、甲斐性も生まれない。……女相手にはめっぽう弱いが、私はひとりの男として親方を尊敬していますよ。だからもう少しシャンとなさってください」 「お、おう……。わかった。」 「こういうことを面と向かって言ってくれる女を嫁になさい。」 「そんなら、やっぱりお前しか……」 そう言うと綾はまた呆れたように笑い、その笑顔につられて藤もヘラヘラと笑った。拮抗した権力を持ちつつ、手を取り合い協力する間柄ではあるが、なぜか互いにそれ以上のものを感じている。 ふたりのあいだに生まれるこの気持ちの正体が、男同士のふたりには見えていない。綾はなんとなく藤を憎めないし、藤も綾の言葉なら素直に受け入れられる。昔は会議で言い合いになったが、何度も仲直りをして、そのたび互いを深く認め合い、うまくここまでやって来た。 だがその奥底にある気持ちが"情"であることに、ふたりは気づかない。……いや、気づいてはいけないと思っている。 「じゃ、そろそろ……」 「おう、そうだな……。綾、たまにはうちにも寄ってくれ。……奥さんも一緒に。」 「ぜひ。親方も何かあったら遠慮なくいらしてくださいよ。それじゃ、失礼します。」 頭を下げ部屋を出て行く綾の背中を、扉が閉まるまで見届ける。綾はなぜ、女じゃないのだろう。本当は初めて見たときからずっとそう思っている。だがどうにもならないことだ。 厳しい男の世界とは、まさしくこのうんざりするような灰色の世界である。だが藤にとって同じ男であるはずの綾は、この空の下で鮮やかに咲く、一輪の小さな花のようであった。綾を見るたび沸き起こる気持ちは、町でめったに見かけない花を見つけたときの気持ちと似ている。それはきれいな女が売られているのを見つけたときの気持ちにも似てるが、それよりももっと鮮烈な喜びだ。 ……この気持ちの正体は、いったい何であろう。いずれ自分が船に乗るときまでに、これを暴くことはできるだろうか。いや、本当はもしかしたら、出会ったときからわかっているのかもしれない。 だけどここは男の世界。女がいなければ成り立たぬ、厳しい灰色の町。優しさを持ち寄るべきは、男と女のあいだでだけ。 なぜなら男は、女しか愛せないのだから。
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