【天気のこと】

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【天気のこと】

この町の天気は、曇りときどき雨、これだけ。 でも気温や風の強さや雨の量というのには規則があり、一定期間ごと順番に巡っている。今は風は吹かないものの、1日を通して小雨が降ったり止んだりを繰り返し、気温は日ごとに下降している。そのおかげで、涼があたたかい時期にたくさん作っておいた防寒具が一斉に売れ始める時期でもある。 このあとにやって来るのは、凍えるような厳寒の時期だ。雨はぐっと少なくなるけれど、冷たい海風にさらされ、港で仕事をするには最も厳しい季節である。そして丘の上はさらに冷たく乾いている。灰色の空がうねり、いっそう重々しく垂れ込め、悲しいことがなくとも陰鬱な気分にさせる。 「これでまたもや涼サマの美肌に磨きがかかったな。」 「えへへ、ありがとう。」 涼が皿を洗ったあとや風呂から上がったあとは、樫がいつも乾燥予防のクリームを塗ってくれる。暖炉の前でパジャマをたくし上げると、樫の武骨な手によって、背中や腕や脚になじませるように塗り広げられる。寒い時期には、1日の中で最も心の休まる時間である。 でも樫は、涼の身体に塗り終えて手のひらに残ったわずかな油分を、さっと自分の手の甲にもみ込むだけだ。寒くなると市場にちらほらと出回り始める量り売りのそ保湿油は、材料が希少なのか必需品であるわりに充分に供給されない。わずかな変動はあるものの高級な品なので相当に値が張り、満足にたくさん買えるシロモノではない。だから小さな缶の中に入ったのを、この寒い時期を過ぎるまで大切に使うのだ。 とは言え、樫は独り身のときにこんなものを買ったことはない。涼がやって来て初めての寒い季節を迎えてから買うようになった。だから樫は今さら自分には必要ないのだと言って、いつも涼のためだけに使っている。 「樫くんの手とっても好きだけど、いつも乾いて痛そう。ちゃんと塗らなきゃ。」 潤った涼の小さな手に包まれ、油分を分け与えられるように撫でられる。 「痛くない。寒くなれば乾くが、あったかくなれば元に戻る。天気とおんなじように繰り返しだ。だがお前たちは水仕事が多いだろう。いつもあんなに冷たい池で洗濯して……そのための油だ。だから俺には必要ないんだ。」 「何言ってるんだ、男の人のほうがずっと過酷じゃないか。いつも吹きっさらしで、1日中天気の気まぐれにさらさらて、線路を作ったり船を作ったり……。櫻先生だって、忙しくなると研究室から1週間も2週間も出てこれないというしね。そのあいだは自分の手入れをしないから、出てくるころにはシワが増えてるって里が言ってた。」 「はは、先生は没頭すると時を忘れるからな。だが先生も好きでやってることだ。夢中になると自分のことなど見えなくなる。仕事は疲れるが、俺もそれほど過酷と思ったことはない。」 「そうは言うけど……。」 「俺たちには、お前たちがあればそれでいい。」 暖炉の前で、絨毯にすわったまま抱き寄せられる。炎の色や熱さが、太陽と重なる。晴れの日が恋しい。毎日晴れていればいいといつも思うが、そんな日はきっと永遠にやってこないだろう。 「……早く晴れるといいね。それかずっとあたたかければいいのに。」 「そうだなあ。でも俺は、寒いのとあったかいのが交互に来るのが嫌いじゃない。」 「寒いのなんかやだよ。」 「その方があたたかい時期へのありがたみが増すだろう。あと、涼の作ってる防寒具だって売れるんだし。」 「それくらいしかいいことがない。暑ければ暑いで、何か違うものを売るよ。」 「商才があるんだな。でも俺は、帰ってきて涼のあったかい身体に抱きしめてもらうのが好きなんだ。だから寒いのもいいと思える。」 「えー?……こういうこと?」 大きな身体で子供のように甘える樫に深い愛おしさを感じながら、涼は膝立ちになって頭からすっぽりと抱きしめてやった。こんなふうにじゃれているときがいちばん幸せだ。寒くなくたって、ふたりはいつも家でこうしてくっ付き合っている。このあとに訪れる厳寒を乗り越えれば、雨も少なく温暖な気候となり、今とは逆に今度は日ごとに気温も上がっていく。やがて雨のほとんどない過ごしやすい季節がやってきて、歩くだけで汗をかくほど暑くなる日もある。 晴れの日は、いつ訪れるかわからない。寒くても暑くても関係なく、神が気まぐれに雲を吹き払うように、朝目覚めると突如として青空が広がっているのだ。 涼はときどき思う。めったに途切れぬ灰色の雲の正体は、この町に住む人々の心から発生しているのではないか、と。 こんなふうにあたたかな部屋で樫と抱き合い、クリームの甘酸っぱい不思議な香りに包まれていても、心のどこかにある翳りが振り払えない。みんながどこかに消えない傷を持っていたり、あるいは病におかされているせいか、自分たちは心に晴れを持っていない。 馬鹿げたことかもしれないけれど、陰鬱な空と自分の気持ちが、ときおりピッタリと重なることがある。だからこそ晴れの日には、すべてを洗われ救われた気分になる。洗濯池で海に話したら、海も「そうかもしれないね。」と言っていた。 でも、樫には確かめられない。 こんなに恵まれた暮らしを与えられているのに、そして彼のことを心から愛しているのに、もしも心が晴れないなどと言ったら、彼は自分に対してあらぬ疑いを抱くかもしれない。彼の悲しむ顔だって見たくない。空が陰鬱なぶん、自分が彼を照らす太陽のように、いつも明るくあたたかな存在でなくてはならない。……それがこの町での、女のもっとも大切な役割であるから。 「寒いの、いやだな。」 ヒロとふたりでバスタブにつかりながら、海がつぶやいた。 「なー。毎日あったけえといいのになあ。」 背後から海の身体を抱き、肩に顎をのせた。 「毎日晴れがいい。雨もいらない。曇りはきらい。」 「何を今さら。」 「寒くて曇ってると、気持ちまで暗くなる。涼が言ってたんだ。この雲は僕たちの心の色と同じだって。」 「なんだ、あいつ詩人だな。」 「ね。でも僕もそう思う。ホントはいつも心のどこかが寂しくて空っぽなんじゃないかって。」 「……全員そうだったら、そりゃあ天気もこうなるよな。俺は毎日それなりに楽しいけどよ。だがひとりのときは虚しかった。親方の家はうるせえから嫌だったが、お前が来るまではたまに恋しくなってた。」 「じゃあ、今のヒロくんが幸せなのは僕のおかげ?」 「あーそうだよ。海サマにうちで暮らしていただいてるおかげだ。」 指先で頬をつつかれ、海は肩をすくめながら笑った。 「僕も幸せ。でもこんなに幸せなのに、空だけはイヤ。寒くて雨が降ると、葉さんも具合が最悪になるって言ってたの、よく分かる。僕もなぜか首のケガが痛くなるような気がするよ。」 「……じゃあ、曇りなのは俺たちの傷のせいかもな。皆きれいさっぱり消えたら、毎日晴れだ。」 「そしたらもっといろんな薬草も育てられるね。」 「そうだなあ。そろそろ新種にも出会いたいもんだ。」 ……僕たちはいったいいつ、この傷をつけられたの?いつも聞こうとするけど、なぜだかそれだけは口から出てこない。だが聞いたところで、きっとヒロだって知らないはずだ。それどころか、この町の誰もそのことを知らないだろう。 灰色の悲しみの向こうに太陽があるのなら、悲しみはどうすれば捨て去ることができるのだろう。いったいいつどこで拾ってきたのかも分からない。……きっと船に乗れば答えは見つかるのかもしれない。しかし船の行き着く先すら、自分たちは知りえない。どこに向かえば、雲のない世界にたどり着けるのだろう。 海は湯船の中で、空と同じ色の広い海を思った。あの果てを知るのは少し怖いし、ヒロと離ればなれになるのは嫌だ。けれどいつか行かなくてはならない。分からないことだらけだが、いつかすべてを知る日がやって来る。 幸せなのは今と未来、いったいどちらなのだろう。
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